十国春秋卷五十 後蜀三 列傳 慧妃徐氏

慧妃徐氏

慧妃徐氏は青城の人で、幼くして才色があり、父の国璋が後主に納れた。後主はこれを嬖し貴妃を拝させ、別に花蕊夫人と号し、また升して慧妃と号した。常に後主とともに楼に登り、龍脳末をもって白扇を塗り墜として地に落とし人に拾われるままにしたところ、蜀人は争ってその制に効い、名づけて「雪香扇」といった。また後主が摩訶池上で避暑した時、彼女のために小詞を作ってこれを美えた。国中にこれが流伝した。徐氏は詩詠に長じ、常に王建に倣って宮辞百首を作り、時人はこれを称許する者が多かった。国が亡んで宋に入り、宋太祖は召してこれに詩を陳べさせ、亡国の由を誦させたところ、その詩に「十四万人斉しく甲を解く、一個の男児無しと言うべし」の句があった。太祖は大いに悦んだ。徐氏は心なお蜀を忘れず、常に後主の像を懸けてこれを祀り、詭って「宜子の神」と言った。一説には墓は閩の崇安にあるという。

史論

論じて言う。逸史が載せる張太華の事は至って奇なること、ほとんど漢の李夫人の類であろうか。花蕊夫人については、宋が蜀を平らげ別将が夫人を護って汴京に入る途中、節を落とす語を作って後に晋邸のために射殺されたと言い、また蜀の俘囚として織室に輸され終に罪を得て自尽を賜ったと言うが、みな誤りである。前蜀・後蜀にはそれぞれ花蕊夫人があり、王蜀ではすなわち導江の費氏、孟蜀ではすなわち徐国璋の娘である。また南唐の宮人で詩に雅に能くする者があり、宋に帰るに及んでこれを小花蕊と目した。その名を称するはみな同じことによったのである。