十国春秋卷五十 後蜀三 列傳 太后李氏

要約

太后李氏は太原の人で、もと唐荘宗の嬪御であったが、荘宗から高祖に賜られた。大星が懐に墜ちる夢を見て瓊華長公主(高祖皇后)に貴子を生む福相があると告げられ、まもなく後主を生んだ。明弁で大体を知る人柄で、初め夫人、明徳元年に貴妃に進み、後主の即位後は皇太后に尊ばれた。しばしば征伐に従い艱難を経験したことから慈倹を尚び、後主に福寿を固く保つよう戒めた。後主は初年こそこれによく従ったが、廣政の末年、太后は「王昭遠・伊審徴・韓保貞・趙崇韜はいずれも兵を習わぬ膏梁の子に過ぎない、太原以来の旧臣高彦儔だけが忠実で頼りになる」と兵権の任用の危うさを指摘して諫めたが、後主は従うことができなかった。

後蜀滅亡後、宋に至ると宋太祖は「国母」と呼んで手厚く遇し、御衣・金銀器などを賜り、みずから酌んで「善く自愛せよ、蜀を戚うことなかれ」と労った。しかし後主が汴京で没すると、太后は哭かずに酒を地に注いで「お前は社稷に死ねず生き恥をさらした、私が死を忍んでいたのはお前がいたからだ」と述べ、そのまま食を絶って殉じた。宋太祖はこれを深く哀れみ、賻贈を加えて後主とともに洛陽に葬らせた。成都在住時、宮中の衛聖龍神が外に出たいと願う夢を見て像を円覚寺に遷させたことは、後に国の滅亡の予兆とされている。

現代語訳全文

太后李氏

太后李氏は太原の人で、もと唐の荘宗の嬪御であった。荘宗はこれを高祖に賜った。ある日、大星が懐に墜ちる夢を見て、瓊華長公主(すなわち高祖皇后)に告げたところ、長公主は太后に言った、「お前には福相があり、必ず貴子を生むであろう」と。そこで常に府舎を知らしめ、まもなく後主を生んだ。人となりは明弁で大体を知り、初め夫人に封じられ、明徳元年に貴妃に進んだ。後主が位に即くと尊んで皇太后とした。しばしば征伐に従い艱難を備歴し、これによりその性は慈倹を尚び、常に後主を戒めて福寿を固くすることをつとめとするよう教えた。後主は初年これに頗る遵行したが、広政の末年、兵を典る者に人を得ないものが多かった。太后は後主に言った、「私は昔、荘宗が黄河を跨いで梁と戦ったのを見ました。先帝が并州にあって契丹を捍ぎ蜀に入って両川を定めた時に至るまで、諸将は大功がなければ兵を主ることができず、それゆえ士卒は畏服したのです。今、王昭遠は厮養より出、伊審徴・韓保貞・趙崇韜はみな膏梁の乳臭子で、もとより兵を習わないのに、ただ旧恩をもって人の上に置かれています。平時には誰があえて言う者がありましょうか。倉卒に疆場のことあらば、どうして大敵を禦ぐことができましょうか。私が観るに、ただ高彦儔だけが太原の旧人で心を秉ること忠実、経練が多く、終にはあなたに背かないでしょう。それ以外には任せるに足る者はいません」と。後主は従うことができなかった。宋に帰るに及んで宋太祖は盛んに優礼を加え、御衣一襲・金器三百両・銀器一千両・絹一千段・綿被氈褥等の物を賜い、これに称った。詔書には「国母」と呼ばせ、肩に禁じ宮庭に至らせ宮嬪に扶掖させ親ら酌して労い、「母よ、善く自愛せよ。蜀を戚うことなかれ。他日必ず母を送って帰らせよう」と言った。太后は「妾の家はもと太原にあります。もし故郷に還ることができれば、これに勝る大願はございません」と言った。この時、北漢はなお存していたので、太祖は大いに喜んで「劉鈞を平らげるのを俟って母の願いのようにいたそう」と言った。後主が没するや、太后は哭かず、酒を地に酹いで祝って言った、「お前は社稷に死ぬことができず、いたずらに生きて恥を取った。私が死を忍んでいたのはお前がいたからだ。今、私は何のために生きようか」と。そのまま食を絶って死んだ。宋太祖はこれを聞いて傷み、賻贈を等を加え、鴻臚卿范禹偁に喪事を護らせ、後主と同じく洛陽に葬らせた。太后が成都にいた時、常に宮中の衛聖龍神が宮外に出て居ることを乞う夢を見た。太后は像を引いて円覚寺に置かせた。人はみな吉兆ではないと言い、国が亡ぶに及んでこれが験となった。