十国春秋十國春秋卷四十八 後蜀一 高祖本紀(孟知祥、字は保胤)
後蜀の建国者、孟知祥(字は保胤、874–934年)。邢州龍岡の人で、晋王李克用の弟克譲の娘を娶り、後唐荘宗のもとで中門使・太原尹などを歴任した。魏王李継岌の蜀平定後、郭崇韜の推挙で成都尹・剣南西川節度副大使として蜀に入り、監軍李厳を斬るなど朝廷の統制を退けて自立の志を固めた。東川の董璋と結んで後唐の討伐軍を退けたのち、董璋を滅ぼして両川を併有し、蜀王に封じられた。明徳元年に帝位に即いて国号を蜀としたが、即位から数か月で没した。
年表(24件)
- 咸通十五年874年邢州龍岡に生まれる。生誕のとき火の光が部屋を照らしたという
- 同光四年926年蜀平定後、成都尹・剣南西川節度副大使に任じられ、十七日で成都に至った
- 天成元年926年荘宗が弑されて明宗が即位。知祥は諸軍を増置し、ひそかに蜀に王たる志を抱いた
- 天成元年926年趙季良の転運の詔を拒み、両川の租税を朝廷へ渡さなかった
- 天成二年927年西川都監として来た李厳を宴席で責め、捕らえて斬った
- 天成二年927年晋陽から瓊華公主と子の仁贊が到着し、趙季良を西川節度副使とした
- 天成三年928年董璋と塩の利を争い、漢州に関所を置いて東川の塩に重く課税した
- 天成四年929年唐が閬・果を割いて保寧軍を置き李仁矩を節度使とすると、董璋と婚姻を結んで連合した
- 長興元年930年董璋と連名で上表し、閬中の節鎮と綿・遂の増兵の撤回を求めた
- 長興元年930年董璋の挙兵に応じて成都で挙兵し、李仁罕らに遂州を攻めさせた
- 長興元年930年唐主が官爵を削り、石敬瑭の唐軍が剣門を落として剣州に迫った
- 長興元年930年趙廷隠が剣州北山で石敬瑭を破り、唐軍は剣門に退いた
- 長興二年931年李仁罕が遂州を落とし、夏魯竒が自殺した
- 長興二年931年石敬瑭が営を焼いて北へ帰り、蜀兵は利州を落とした
- 長興二年931年唐が安重誨を殺し、両川挙兵の責を重誨の離間に帰す詔を下した
- 長興三年932年董璋が漢州を破って侵入するも、趙廷隠・張公鐸らが大破し、董璋は梓州で殺された
- 長興三年932年趙季良らの請いを容れて東川をも領し、両川を併せ有した
- 長興三年932年李存瓌の来訪を受けて表を奉り、ふたたび唐の藩を称した
- 長興四年933年唐が検校太尉兼中書令・両川節度使に任じ、蜀王に封じた
- 長興四年933年盧文紀らが冊礼使として成都に至り、袞冕を着けて冊命を受けた
- 明徳元年934年閏正月、成都で皇帝の位に即き、国号を蜀とした
- 明徳元年934年四月、玉冊と玉璽を受けて大赦し、明徳と改元した
- 明徳元年934年張虔釗・孫漢韶の来降に乗じて山南の地を切り取った
- 明徳元年934年秋七月、子の仁贊を太子として監国させ、趙季良ら六人に遺詔を託して没した。享年六十一
呉任臣の撰。後蜀高祖孟知祥の一代記。
出自と唐への仕官(874-925年)
- 高祖は姓は孟、名は知祥、字は保胤、邢州龍岡の人。唐の咸通十五年(874年)四月二十一日に生まれた。生誕のとき火の光が部屋を照らし、近隣の者が不思議がった。ある僧が見て背をなで、これは武台山の霊だと言った。
- 二十歳で太原衛指揮使に補された。知祥は温厚で書物に通じ、進んで善を行った。
- 唐末、叔父の孟遷が邢・洺・磁の三州を占拠したが晋に奪われた。晋王李克用は遷に澤・潞を守らせたが、汴(梁)の兵が晋を攻めると遷は澤・潞を挙げて梁に降った。知祥の父の道だけが晋に留まって仕えたが、世に顕れなかった。
- 晋王が太原を鎮めた際、知祥を才ありと認め、弟の克譲の娘を娶らせた。累進して親衛軍使となった。
- 唐の莊宗が晋王位を継ぐと馬歩軍左教練使に改められ、嵐州を知り、召されて中門使となった。
- 莊宗が梁の太祖と黄河を挟んで対陣したとき、知祥は謀議に加わって臨機に処し、事が滞らなかった。それ以前の中門使は罪を得て誅された者が多く、知祥は禍を恐れて他職を求めた。莊宗が代われる者を推薦せよと諭したので、知祥は郭崇韜を挙げて自分に代えた。崇韜はこれを恩に着た。知祥は馬歩軍都虞候に移った。
- 莊宗が帝号を建てると太原府を北京とし、知祥を太原尹・北京留守とした。
- 魏王李継岌が蜀を伐つ際、招討使の郭崇韜は出発の別れ際、莊宗に、蜀を平定したのちに西川を守らせる帥としては孟知祥に及ぶ者はいない、と申し上げた。
- 唐軍が蜀を破ると、知祥は同中書門下平章事・成都尹・充剣南西川節度副大使に任じられた。
- 知祥が洛陽へ馳せ着くと、莊宗は担当官に命じて盛大に幕を設け、内府の珍宝を多く出して宴を張り労った。酒がまわり昔語りに興じるうち、莊宗は嘆いて、継岌は先日まで乳臭い小僧だったのに両川を平定してくれた、我らは老いた、あの若造は喜ばしいがそれだけにいっそう悲しい、と言った。さらに、先帝が世を去られたころは領土を削られ一隅を保つのがやっとだったのに、今日天下を有し九州四海の珍宝が府庫に満ちるとは思いもよらなかった、と語り、それらを指し示して、蜀王の富もこれと変わらぬと聞く、卿は親族であり賢者であるから任せるのだ、と述べた。
- やがて莊宗は崇韜を疑い、知祥に誅すよう命じた。知祥は、崇韜は国の勲旧であり必ず二心はありません、臣が蜀に至って様子を見、他意がなければ都へ帰らせましょう、と答えた。
- 知祥が石壕に至ったとき、中使の馬彦珪が崇韜を誅しに行くと告げた。知祥は行程を倍にして急ぎ、洛陽から蜀まで十七日で成都に着いたが、崇韜はすでに死んでいた。同光四年(926年)正月甲戌のことである。
- 諸将の多くが動揺していたが、知祥は着任すると勅を承けて宣撫し、人心はやや落ち着いた。
同光四年・天成元年(926年)
- 戊寅、魏王が知祥を伴って大慈寺に詣で、唐の僖宗の御真影を拝した。さらに延祥院に立ち寄り、前蜀後主王衍の肖像を見て、ともに撤去させ、代わりに北方天王の像一体を作らせた。
- これより先、蜀の人は毬技で最初に入れることを「孟入」と呼んでいた。またこれは太原から持ち込まれた毬だとも言われた。さらに王氏の宮殿にはみな棟梁の匠として孟德の姓名が記されていた。德は得と同音である。知祥が来ると、成都の人はこれを前兆だと考えた。
- このとき魏王が蜀の宮殿にいたので、知祥は徐延瓊の邸を宿舎とした。前蜀の後主がかつて延瓊の壁に「孟」の字を書いてからかった話は前蜀の伝にある。知祥はこれを見て笑い、粗忽な覇者気取りの小僧でも、私が代わることを予知していたのか、と言った。
- 魏王継岌が軍を率いて東へ帰ると、先鋒の李紹琛(康延孝)が反いて漢州を攻め落とした。知祥は大将の李仁罕を遣わし、任圜・董璋らの兵と合流して撃破し、綿竹で紹琛を追捕した。
- 知祥は自ら漢州に至って軍を犒い、圜・璋と酒宴を開いた。檻車の紹琛を座に引き出し、自ら大杯を酌んで飲ませ、あなたは富貴に困ることもないのに、なぜこんな目に遭おうとしたのかと問うた。紹琛は、郭侍中は輔佐の功が第一でありながら一朝にして罪なく一族誅殺された、自分のような者がどうして首を全うできようか、それゆえ朝廷に帰れなかったのだ、と答えた。
- 知祥はその配下の李肇・侯宏実と兵数千を得て帰り、肇を衙内馬歩都指揮使、宏実をその副とした。
- 当時、蜀中では群盗がなお収まっていなかったので、知祥は清廉な吏を選び、不当な賦課を除き、離散した民を集め、寛大な法令を下して民と新たに出直した。趙廷隠・張知業に兵を分けて討たせ、盗賊をことごとく平定した。
- ほどなく莊宗が弑され、魏王継岌が自殺し、明宗が入って即位して、この年を天成元年と改めた。
- 知祥は兵を訓練し、ひそかに蜀に王たらんとする志を抱いた。
- 秋七月、庫を開いて鎧甲二十万領を得、義勝・定遠などの軍と左右牙などの兵あわせて十六営・一万六千人を増置し、牙城の内外に営を置いた。
- また崇韜がはじめに左右驍鋭など六営(騎兵三千人)、左右寧遠など二十営(歩兵二十万人)を分けていたのに加え、八月に左右衝山など六営・六千人を増置して羅城の内外に営し、義寧など二十営・一万六千人を置いて州県に分営して食を得させた。さらに左右牢城四営・四千人を置いて成都境内に分けて守らせた。
- 九月壬戌、左右飛棹兵六営・六千人を置いて長江沿岸の諸州に分けて守らせ、水戦を習わせて夔峡に備えた。李仁罕・趙廷隠・張知業らに分けて統率させた。
- はじめ魏王と崇韜は蜀中の富民から犒賞銭五百万緡を取り立て、金銀や絹布での納入も認めた。昼夜責め立てたので自殺する者まで出た。軍に給した残りがなお二百万緡あり、蜀から朝廷に入って宰相となり三司を兼判した任圜は、かねてこの余剰を知っていた。
- 冬十月、明宗は知祥に太尉・兼侍中を加え、平原公に封じた。そのうえで鹽鉄判官・太僕卿の趙季良を官告国信兼三川都制置転運使とし、蜀の犒軍の残余を京師へ送らせ、あわせて両川の租税を管理させようとした。
- 知祥は怒って詔を奉ぜず、府庫の金は他人が集めたものだから送ってもよいが、州県の租税は十万の鎮兵を養うものだから決して渡せない、と言った。季良はただ蜀の庫の金帛十億分を洛陽へ送っただけで、制置転運の職務については二度と口にできなかった。知祥はもとより季良と旧交があったので、そのまま留めて帰さなかった。
- 樞密使の安重誨は、知祥と東川節度使の董璋が険を頼んで兵を擁し、長くなれば制しがたくなると疑い、また知祥が莊宗の近い姻戚であることから、これを除く策を考えた。
- はじめ知祥が蜀を鎮めたとき莊宗は宦官の焦彦賓を監軍としたが、明宗が立つと宦官をことごとく誅し諸道の監軍を廃したので、彦賓もすでに罷めていた。そこへ客省使・泗州防禦使の李厳が自ら西川監軍となれば必ず知祥を制せると願い出た。
- この月己酉、重誨は厳を西川都監、文思使の朱宏昭を東川副使とした。厳は以前に蜀へ使いして帰ったのち蜀征伐の策を献じたので、蜀の人はみな憎んでいた。厳の母は、おまえは以前に蜀を滅ぼす謀を進めた、今また行けば必ず死をもって蜀に報いることになろう、と言った。
天成二年(927年)
- 春正月、知祥は厳が来ると聞いて怒り、焦彦賓は慣例どおり罷め諸道の監軍も廃されたのに、我が軍にだけ置くのは、厳が蜀でふたたび功を立てようというのだ、と言った。掌書記の母昭裔らはみな厳を止めて入れぬよう請うたが、知祥は、待遇の仕方は考えてあると答え、吏を綿・剣に遣って出迎えさせた。
- 折しも武信節度使の李紹文が没した。知祥は、便宜行事を許す密詔を受けていると称し、壬戌、西川節度副使・内外馬歩都指揮使の李敬周を遂州留後として急ぎ赴任させ、そののちに上表して報告した。
- 厳が国境に至ると使者に書を持たせて意を伝えた。知祥は厳と旧恩があったが、兵甲を盛大に並べて会い、恐れて来ないことを期待した。しかし厳は聞いても平然として、やがて成都に着いた。知祥は厳をきわめて手厚く遇した。
- ある日、酒宴を設けて厳を招いた。このとき焦彦賓はまだ蜀にいたが、厳は懐から詔を出して彦賓を誅すべきだと示した。知祥は従わず、逆に厳を責めて、あなたは以前に王衍のもとへ使いし、帰って兵を請うて蜀を伐ち、ついに両国とも滅ぼした、今またあなたが来たので蜀の人は恐れている、しかも諸方鎮の監軍はみな廃されたのに、あなただけが我が軍を監しに来たのはなぜか、と言った。厳は恐れおののいて哀れみを乞うたが、知祥は、衆人の怒りは抑えられぬと言い、揖して降ろさせ、客将の王彦銖に目配せして捕らえ斬らせた。
- 続いて厳の遺骸を左廂馬歩都虞候の丁知俊に託し、昔、厳が使いしたときおまえは副使だった、旧知の間柄だ、私のために葬ってやれ、と言った。
- そして、厳が偽って口勅を伝え「臣に代わって朝廷に赴け」と称し、また勝手に将士へ厚い賞を許したので誅した、と偽って奏上した。内八作使の楊令芝は用事で蜀へ来る途中、鹿頭関で厳の死を聞いて引き返した。しかし明宗は結局とがめなかった。
- 東川にいた朱宏昭もこれを聞いて恐れ、洛陽へ帰ろうと図った。折しも董璋に軍事があって彼を入奏させることになり、宏昭は表向き辞退してから出発したので難を免れた。
- 当時、知祥は牙内指揮使の武漳を晋陽へ遣って家族を迎えさせていたが、鳳翔まで来たところで、鳳翔節度使の李從曮が厳の殺害を聞いて知祥が反いたと考え、留めて出発させなかった。
- 唐主はこれを問い詰めることもできず、なお恩信で繋ぎ止めようとして、知祥の家族の蜀行きを許す詔を下し、客省使の李仁矩を遣って知祥および吏民を慰諭させた。
- 三月甲戌、仁矩が成都に到着した。丙申、瓊華公主と子の仁贊が晋陽から到着した。知祥はそこで趙季良を副使とするよう上表した。
- 夏四月、唐は季良を西川節度副使とした。知祥は事の大小を問わずみな季良と相談して決した。このころ李昊が成都に帰り、観察推官とされた。
- 秋七月、知祥は僧五人を遣って唐に仏牙を貢いだ。長さ一寸六分で、僖宗が蜀に行幸した際に残したものだといい、応聖嘉節に当たるので万寿を祈るためと称した。唐主は群臣に示させた。
- 冬十二月、羅城の外に羊馬城を築いた。壬辰、西南の方角に火焔のような赤い気が現れ、およそ二千里に及んだ。
天成三年(928年)
- 春三月、知祥はしばしば董璋と塩の利をめぐって争った。璋が商人を誘って東川の塩を西川に売り込ませたので、知祥は憂えて漢州に三つの関所を置いて重く課税し、年に七万緡を得た。商人はこれ以後、東川へ行かなくなった。
- 唐は趙季良を果州団練使に移し、何瓉を西川節度副使とした。知祥は制書を得ると隠し、季良の留任を上表したが許されなかった。そこで将の雷廷魯を京師に遣って論じ請わせ、唐主はやむなく従った。このとき瓉は綿谷まで来ていたが恐れて進めず、知祥は瓉を行軍司馬とするよう奏した。
- この年、唐軍が荊南を伐ち、詔して蜀の兵を峡に下らせた。知祥は左肅辺指揮使の毛重威に三千の兵を率いさせて夔州に駐屯させた。まもなく荊南の高季興が没して子の從誨が帰順を請うたので、知祥は戍兵の引き揚げを請うたが許されなかった。そこで知祥は重威にほのめかし、兵に騒がせて崩れ帰らせた。唐は詔書で重威を弾劾しようとしたが、知祥は弾劾しないよう奏請した。これによって唐の大臣はますます知祥が必ず反くと考えた。
天成四年(929年)
- 春、大飢饉となり、米一斗が銭四百文になった。
- 夏五月、唐主が南郊の祭祀を行うにあたり、客省使の李仁矩を遣って知祥に助礼銭百万緡を求めた。知祥は唐が自分を困らせる謀だと察して辞退したが、久しくして五十万を献ずると申し出た。
- これより先、魏王継岌が東へ帰る際、精兵五千を残して蜀に駐屯させていた。安重誨は知祥に異志ありと疑って以来、上申する者の言を容れ、自分の親信を両川管内の諸州に分けて守らせ、守将を任じるたびに精兵をその牙隊とした。多い場合は二、三千、少なくとも五百人を下らなかった。
- ここに至り、唐は夏魯竒を武信軍節度使とした。冬十月辛亥、閬・果の二州を割いて保寧軍を置き、李仁矩を節度使とし、また武虔裕を綿州刺史とした。仁矩はかつて東川の董璋に罵られて仲が悪く、虔裕は重誨の従兄にあたる。仁矩は日々璋の反状を探り、話を膨らませて奏上した。
- 唐主はまた魯竒に遂州の城壁と堀を修めさせ、武具を整えさせた。璋はすでに大いに恐れていた。当時、綿・龍をも割いて節鎮を置くとの噂が流れ、知祥も恐れた。
- 知祥はもとより璋と折り合いが悪く、音信を交わしたこともなかった。璋は唐が討伐に来ると見て、はじめて人を遣り婚姻を求めて結び合おうとした。知祥は内心璋を憎んで断ろうとしたが、趙季良が連合して唐に当たるべきだと説いたので、娘を璋の子に嫁がせることを許した。
長興元年(930年)
- 春正月、董璋は剣門に七つの砦を築いた。辛巳、趙季良が梓州へ行って修好した。
- 二月乙未朔、季良は成都に帰り、知祥に、董公は貪欲で残忍、勝ち気で志は大きいが謀は浅い、いずれ西川の患いとなろう、と述べた。
- 丁酉、軍校の都延昌と王行本を腰斬した。このころ都指揮使の李仁罕・張知業が宴を設けて知祥を招こうとしていたが、その二日前に一人の尼が、二将が宴の日に乱を起こす企てだと告げた。問い質すと証拠がなく、言い出した者を追及すると延昌と行本であったので処刑した。
- 戊戌、知祥は単身で仁罕の邸へ赴いて宴に出た。これによって諸将はみな親しみ服した。
- 壬子、知祥と璋は連名で上表し、朝廷が閬中に節鎮を建て、綿・遂に兵を増やしたので誰もが不安に思っている、遣わされた節度使・刺史らを召し返してほしい、と述べた。唐主は手厚い詔で慰めた。
- この月、唐は南郊の祭を行い、知祥に兼中書令を加えた。
- 夏四月甲午朔、董璋は武虔裕が自分の動きを窺うのを恐れ、上表して行軍司馬を兼ねさせたうえで府庁に幽閉した。
- 五月、璋は民兵を検閲して集め、みな髪を切り顔に入れ墨した。また剣門の北に永定関を置き、烽火を並べた。この月、知祥は雲安など下流の三つの鹽監を西川に隷属させ、塩の代価で寧江の駐屯兵を養いたいと重ねて上表し、辛卯、唐主が許した。
- これより先、知祥と璋はともに異心を抱いていたが、安重誨は上申者の言を信じ、なお璋を頼りに知祥を図ろうとしていた。ここに至って璋が先に反謀を抱き、兵を遣って遂・閬の鎮戍を掠めた。
- 秋七月、璋は子の宮苑使光業に書を送り、朝廷は我が支郡を割いて節鎮とし三千の兵を駐屯させた、これは私を殺すつもりだ、おまえは要路の者に会って、朝廷がもう一騎でも斜谷に入れれば私は必ず反く、これで訣別だと伝えよ、と言った。
- まもなく唐がさらに別将の荀咸乂に兵を率いて閬州を守らせたので、璋はついに反いた。
- 九月癸丑、西川進奏官の蘇愿が知祥に、朝廷が兵を発して両川を討とうとしていると告げた。知祥が副使の趙季良に諮ると、季良は、東川にまず遂・閬を取らせ、そののち兵を合わせて剣門を守れば、大軍が来ても後顧の憂いはない、と説き、知祥は従った。使者を遣って璋と同時挙兵を約した。璋は利・閬・遂の三鎮に檄を移し、朝廷を離間したと数え立てて閬州を攻めた。
- この月の応聖節、知祥は宴を開いて東北を望んで再拝し、俯して嗚咽し涙で襟を濡らした。士卒もこれにすすり泣いた。
- 翌日庚午、成都で挙兵した。都指揮使の李仁罕を行営都部署、漢州刺史の趙廷隠を副、簡州刺史の張知業を先鋒都指揮使とし、三万の兵で遂州を攻めさせ、別将の牙内都指揮使侯宏実を先登とし、指揮使の孟思恭に四千の兵で璋と合流して閬州を攻めさせた。
- あわせて諸州に掲示を出した。その趣旨は、君主が恩信を欠けば臣下は離れ、臣下が猜疑を受ければ権変に出るのはやむを得ない、恥を忍んで座視することも、琴柱を膠づけするように融通のきかぬこともできない、門戸を開いて敵を招き根を伸ばして患いを育てるにまかせず、戈を挙げて罪を問い衆に誓って征く、というものである。続けて、自分は国朝の姻戚で莊宗の命を受けて西川を鎮め、帝位が東の洛陽に移っても時勢に従い、君を喪えばまた君を戴き、誠を尽くして貢を運び、五年のうちに五十万緡を送って朝廷の費用に充ててきた、天子に勤労を示し諸侯の模範たらんとしたことは天下が知る、官位も加えられ寵光も受けてきた、と述べる。しかし間諜が起こって閬中に節鎮を立て兵を増やし、我が軍民を動揺させ我が咽喉と背を押さえたので、たびたび異議を上申して懐柔を願ったのに、朝廷は徳とせずかえって疑いを深め、魚水の歓びを損ない雲龍の契りを絶った、と訴える。そして自分は東川の相公とすでに姻戚を結び、境を接して鶏犬の声を聞き笳鼓の響きを交わす仲であり、地は二鎮に分かれても人心は一家に等しく、同舟の勢いで共に済うのだと述べる。今、東川と合わせて馬歩軍十五万を点検し、道を分けて武信・利閬・黔夔などの州へ向かい、駐屯した兵の由来を問う、軍法は別に条章に定め、安寧を期して侵掠はしない、と告げる。さらに、王氏が国を開いて久しく成都に覇を唱え、東は瞿塘に鉄鎖を垂れ北は大散関を泥で封じたが、子孫が守りを失い将相の心が離れた、蜀の民はなお覇主を忘れておらず、その旧を懐かしむ思いに応じて武を奮い疆を開くのだ、四民をそれぞれ生業に安んじさせ、そののちは花の林に月を歩み錦江に春を行く、繁華は昔年に劣らず爵禄はこの日に新たとなろう、と結ぶ。
- 東川の兵が閬州に至ると、唐の諸将の多くは塹を深くし塁を高くして鋭気を挫くべきだと言ったが、李仁矩は、蜀の兵は軟弱で我が精兵に当たれるものかと言って出戦し、兵はぶつかる前に潰えて逃げ帰った。董璋が昼夜攻め、庚辰に城は陥ち、仁矩は殺されて一族も滅ぼされた。
- 丙戌、唐主は制を下して董璋の官爵を削り、兵を起こして討たせた。知祥は閬州攻略の顛末を西川に掲示した。
- 丁亥、唐は知祥に兼西南面供饋使を与え、天雄節度使の石敬瑭を東川行営都招討使、夏魯竒をその副とした。
- 璋は孟思恭に兵を分けて集州を攻めさせたが、思恭は軽々しく進んで敗れ帰った。璋は怒って成都へ送り返し、知祥はその官を免じた。
- 戊子、唐は敬瑭に東川の事を権知させた。庚寅、右武衛上将軍の王思同を西都留守兼行営馬歩都虞候とし、蜀征伐の前鋒とした。
- この秋、唐は瓊華公主を福慶長公主に改封し、祕書監の劉岳を冊使としたが、鳳翔まで来て知祥の挙兵を聞き引き返した。
- 冬十月癸巳、李仁罕が遂州を囲み、夏魯竒は城に籠って堅守した。知祥は都押牙の高敬柔に資州の義軍二万人を率いさせて長城を築いて囲ませた。魯竒は馬軍都指揮使の康文通を出撃させたが、文通は閬州陥落を聞いてその部下ともども仁罕に降った。
- 戊戌、董璋は兵を率いて利州へ向かったが、雨に遭って糧運が続かず閬州へ戻った。知祥はこれを聞いて驚き、閬中を破ったのはまっすぐ利州を取るためだったのに、と嘆いた。その帥は武勇に欠けるから必ず風を望んで逃げ、こちらは倉庫を得て漫天の険に拠れば、北軍は西へ進んで武信を救えなくなる、それを今、董公が閬州の片隅にとどまって剣閣を遠くに捨てるのは策ではない、と言い、三千の兵を送って剣門を守らせようとしたが、璋は備えがあると言って固辞した。
- 丁未、唐は董光業を一族もろとも誅した。知祥は前蜀の鎮江節度使であった張武を峡路行営招収討伐使とし、水軍を率いて夔州へ向かわせ、左飛棹指揮使の袁彦超を副とした。
- 癸丑、東川の兵が徴・合・巴・蓬・果の五州を落とした。
- 十一月戊辰、張武は渝州に至って刺史の張環を降し、続いて瀘州を取り、先鋒将の朱偓に兵を分けて黔・涪へ向かわせた。
- この月、唐の都招討使石敬瑭が散関に入り、階州刺史の王宏贄・瀘州刺史の馮暉が前鋒馬歩都虞候の王思同・歩軍都指揮使の趙在礼とともに人頭山の後ろから剣門の南へ回り込み、剣門を攻め落として東川兵三千を殺し、都指揮使の齊彦温を捕らえて拠って守った。
- 甲戌、宏贄らは剣州を破ったが、後続の唐軍が続かなかったので、家屋を焼き糧を取って剣門に籠った。
- 乙亥、唐主は詔して知祥の官爵を削った。
- 己卯、董璋が使者を遣って急を告げた。知祥は剣門失陥を聞いて大いに恐れ、董公はやはり私を誤らせた、と言った。
- 庚辰、牙内都指揮使の李肇に五千の兵で赴かせ、昼夜兼行で先に剣州を押さえれば北軍は何もできぬ、と戒めた。また遂州へ使いして趙廷隠に一万人を率いて剣州に合流駐屯させ、さらに前蜀の永平節度使であった李筠に四千の兵で龍州へ向かわせ要害を守らせた。
- そのころ璋は閬州から両川の兵を率いて木馬寨に駐屯し唐軍に備えていた。唐軍が剣州へ向かったが、蜀の指揮使龎福誠・謝鍠に攪乱され、ふたたび剣門に退いて十余日出て来なかった。
- 知祥はこれを聞いて喜び、自分ははじめ、宏贄らが剣門を落とせばそのまま剣州に拠って堅守するか、あるいは兵を率いてまっすぐ梓州へ向かうと思っていた、そうなれば董公は必ず閬州を捨てて逃げ帰り、我が軍は援けを失って遂州の囲みも解かねばならず、内外に敵を受けて両川が震動し危うくなるところだった、それが今、剣州を焼いて糧を東へ運び、剣門に兵を止めて進まぬのだから、与しやすい相手だと分かった、と言った。
- 唐兵が道を分けて文州を取り龍州を襲おうとしたが、定遠指揮使の潘福超・義勝都頭の沙延祚がこれを撃破した。
- 甲申、張武が渝州で没し、知祥は袁彦超に代わってその兵を率いさせた。朱偓が涪州に迫ると、唐の武泰節度使楊漢賓は黔南を捨てて忠州へ逃げた。偓は豊都まで追い、戻って涪州を取った。知祥は成都支使の崔善権を武泰留後とし、あわせて軍民に掲示した。
- まもなく董璋は前陵州刺史の王暉に三千の兵を率いさせ、李肇らと合流して剣州の南山に分屯させた。
- 十二月壬辰、石敬瑭が剣門に至り、乙未、剣州の北山に進んで駐屯した。趙廷隠は牙城の後山に陣し、李肇と王暉は河橋に陣した。敬瑭が歩兵で廷隠を攻めると、廷隠は射手五百人を敬瑭の帰路に伏せ、甲を按じて待った。矛先が触れ合うほどに近づいたところで旗を揚げ鬨の声をあげて撃つと、唐軍は退いて山を転げ落ち、百余人を捕らえ斬った。敬瑭は騎兵で河橋を衝かせたが、肇が強弩を射かけて騎兵は進めなかった。夕暮れに敬瑭が引き揚げると、廷隠が追撃し伏兵と合わせて大敗させた。敬瑭は剣門に戻って駐屯した。
- このころ唐軍は険路を越えて糧道に苦しみ、潼関以西の民は輸送に疲れ、一石を費やして一斗も届かぬありさまで、道々に嘆きと怨みが満ちた。敬瑭は出兵しても功がなく、唐主は憂えて安重誨を厳しく責めた。重誨はただちに自ら出向くことを願い出て、癸丑に洛陽を発ち日に数百里を馳せた。
- 敬瑭はもともと出兵に乗り気でなかったので、重誨が唐主のそばを離れると、たびたび上表して両川は伐つべきではないと論じ、唐主もかなりもっともだと考えた。蜀の兵で先に夔州を守っていた千五百人を、唐はここに至ってすべて帰した。
長興二年(931年)
- 春正月壬戌、知祥は上表して唐に謝した。
- 庚午、李仁罕が遂州を落とし、夏魯竒は自殺した。
- 癸酉、石敬瑭がふたたび兵を率いて剣州に至り北山に駐屯した。知祥は魯竒の首を梟して見せた。魯竒の二子は敬瑭の軍中にいて、泣いて父の首を取って葬りたいと願った。敬瑭は、知祥は度量のある人物だから必ずおまえの父を葬ってくれる、身と首が離れたままよりよいではないか、と言った。果たして知祥は収めて葬った。
- 敬瑭は蜀将の趙廷隠と戦って利あらず、また剣門に戻った。
- この月、唐主は敬瑭および朱宏昭・孟漢瓊の言を用いて安重誨を都に召還した。
- 二月己丑朔、敬瑭は遂・閬がすでに陥ちて糧運が続かないので、営を焼いて北へ帰った。蜀兵は東川の兵とともに利州まで追った。
- 壬辰、唐の昭武節度使李彦珂は城を捨てて逃げた。甲(日)、蜀兵は東川の兵とともに利州を落とした。知祥は趙廷隠を昭武軍留後とした。
- 廷隠は使者を遣ってひそかに、董璋とは憂いを共にできても楽しみを共にはできない、いずれ必ず公の患いとなる、剣州へ軍を労いに来る機会に討つべきだ、と申し入れたが、知祥は許さなかった。
- 庚子、知祥は武信留後の李仁罕を峡路行営招討使とし、水軍を率いて東へ土地を切り取らせた。
- 乙巳、趙廷隠と李肇が剣州から引き揚げ、五千の兵を残して利州を守らせた。丙午、董璋は東川へ帰り、三千の兵を残して果・閬を守らせた。
- 丁巳、李仁罕が忠州を落とした。
- 三月己未朔、仁罕が万州を落とし、庚申には雲安監も落とした。仁罕が夔州に至ると、唐の寧江節度使安崇阮は楊漢賓とともに均・房から逃げ去った。壬戌、仁罕は夔州を落とした。
- 夏の閏四月、唐は臣下の安重誨を殺した。唐主は、蜀が兵を起こしたのは重誨の失策のためだと考えていた。重誨が死ぬと、五月己亥、詔を下して知祥および董璋・銭鏐を離間したことを重誨の罪とした。
- 丙午、唐は進奏官の蘇愿と進奉軍将の杜紹本を帰らせ、重誨が独断で兵を起こしたが今は誅に伏したと諭し、京師にいる知祥の甥や姪はみな無事だと伝え、東川の軍将劉澄も本道へ帰した。
- 知祥は重誨が死に唐がその家族を厚遇していると聞いて、璋を誘って共に謝罪しようとした。璋は、孟公の家族はみな健在だが私の子孫だけが殺されたのだ、何を謝ることがあろう、しかも詔書は蘇愿の腹の中にあり、劉澄がどうしてそれを知り得ようか、と言った。
- 乙未、李仁罕が夔州から兵を率いて成都に帰った。
- 十二月、昭武留後の趙廷隠が、利州の城と堀は整ったので兵を出して興元および秦・鳳を取りたいと願い出たが、知祥は許さなかった。廷隠はまた、先に剣州で牙内都指揮使の李肇と功を同じくしたのだから昭武の職を譲りたいと願ったが、知祥は褒めながらも許さなかった。三度譲ったので、癸酉、成都に召し返し、肇を代わりに利州の守りに就けた。
長興三年(932年)
- 春正月、知祥は朝廷の恩意が手厚いのに、董璋が綿州の道を塞いで使者に謝意を伝えさせないので、節度副使の趙季良らと謀って峡江から使者を出して上表しようとした。掌書記の李昊が、公が東川と相談せず単独で使者を出せば、後日、約を破った責めはこちらにかかる、と言ったので、あらためて使者に伝えさせたが、璋は従わなかった。
- この月、福慶長公主李氏が薨じた。
- 二月、趙季良が諸将と議し、昭武都監の高彦儔に兵を率いて壁州を攻め取らせ、山南の兵が山後の諸州へ回り込むのを絶とうとした。知祥が僚佐に諮ると、李昊は、朝廷が蘇愿らを西へ帰したのにまだ返礼もしていない、それなのに軍を起こして侵すのはいかがか、公がもし墳墓や甥姪を捨てる覚悟なら、檄を伝えて兵を挙げまっすぐ梁・洋を取ればよい、壁州など何になろう、と述べたので、知祥は取りやめた。季良はこれで昊を憎むようになった。
- このころ知祥は三度使者を遣って董璋を説き、上表して唐に謝さねばまた討伐を招くと言ったが、璋はいずれも聴かなかった。
- 三月辛丑、李昊を梓州に遣って利害を論じ尽くさせたが、璋はますます知祥が自分を売るのだと疑い、怒って昊に暴言を浴びせた。昊は帰って、璋は謀議に応ぜず西川を窺う志があると述べ、備えるよう勧めた。
- 夏四月、璋は成都を襲おうと謀った。諸将はみな必ず勝てると言ったが、王暉だけは、剣南は万里に及び成都は大きい、今は真夏で出兵に名分もなく功は成るまい、と言った。知祥はこれを聞き、馬軍都指揮使の潘仁嗣に三千人を率いて漢州へ行き偵察させた。
- 璋は境に入って楊林鎮を破り、蜀の戍将武宏礼を捕らえた。知祥はかなり憂色を示した。趙季良は知祥自ら出て防ぐよう勧め、趙廷隠も同意して、璋は軽率で謀がないから兵を挙げても必ず敗れる、公のために生け捕りにしましょう、と言った。
- 辛巳、廷隠を行営馬歩軍都部署とし、三万の兵で璋を防がせた。
- 五月壬午朔、廷隠が出発の挨拶に入ったとき、璋の檄書が届いた。あわせて季良・廷隠・李肇に宛てて、彼らが自分と通謀していると誣告する書もあった。廷隠は見もせず地に投げ捨てて再拝して出発した。知祥は、これで事は成る、と言った。肇はもとより読み書きができず、これを見て、璋は私に反けと言っているのか、と使者を捕らえたが、やはり兵を集めて自衛の構えを取った。
- 璋の兵が漢州に至り、仁嗣は赤水で戦って敗れ、璋に捕らえられた。璋は漢州を落とした。
- 癸未、知祥は季良と高敬柔に成都を守らせ、自ら八千の兵を率いて漢州へ向かい、彌牟鎮に至った。廷隠は鎮の北に陣した。
- 甲申、夜明けに廷隠は鶏蹤橋に陣し、義勝定遠都知兵馬使の張公鐸がその後ろに陣した。
- 知祥は璋の降兵に錦の袍を着せ、書を持たせて璋に降伏を勧めた。璋は、事はもうここまで来た、悔いても始まらぬ、と答えた。
- 軍中は暑気が厳しかったが、知祥が巡って将士を労うと、三軍は喜び、暑い中で水浴びしたかのようであった。
- まもなく璋は蜀兵の盛んなのを見て退き、武侯廟の下に陣を移した。璋の帳下の勇兵が騒ぎ立て、日中にただ我らを炙るだけか、なぜ早く戦わぬ、と叫んだので、璋は軍を指揮して戦った。
- 兵が交わり始めると、璋の右廂馬歩都指揮使の張守進が降ってきて、東川の兵はこれで全部で後続はない、急いで撃つべきだと告げた。知祥は高い塚に登って戦を督した。
- 左明義指揮使の毛重威と左衝山指揮使の李瑭は鶏蹤橋を守って東川兵に殺された。廷隠は三度戦って利あらず、牙内都指揮副使の侯宏実の兵も退いた。知祥は恐れ、馬鞭で後陣を指した。張公鐸が衆を率いて大声をあげて進むと、東川兵は大敗し、死者数千人を出した。
- 璋の中都指揮使元璝、牙内副指揮使董光演ら八十余人を捕らえ、甲馬五百余匹を奪った。璋は胸を打って、親兵はみな尽きた、誰を頼れようか、と言い、数騎とともに逃げた。残る七千人はみな降り、潘仁嗣も取り戻された。
- 知祥は兵を率いて璋を五侯津まで追い、その馬歩都指揮使の元瓌を降した。蜀兵は漢州の府邸に入って璋を捜したが見つからなかった。士卒が璋の軍資を奪い合っていたので、璋は逃げおおせたのである。趙廷隠は赤水まで追い、さらに三千の兵を降した。
- その夕、知祥は雒県に宿し、李昊に東川の吏民に諭す掲示と、璋を労う書を草させ、梓州へ行って約を破った理由を問い、討伐された罪を明らかにしたいと述べさせた。
- 乙酉、知祥は赤水で廷隠と会い、西へ帰り、廷隠に兵を率いて梓州を攻めさせた。
- 璋は先に梓州に着き、輿に乗って入った。王暉が出迎えて、太尉は全軍を率いて出たのに、いま帰りは十人もいないのはなぜか、と問うた。璋は涙を流して答えられなかった。府邸に着いて食事をとろうとしたとき、暉と璋の甥の牙内都虞候延浩が三百の兵を率いて騒ぎ立てて乱入した。璋は急ぎ妻子を連れて城に登った。
- はじめ璋が逃げ帰る途中、金鴈橋を過ぎたとき、子の光嗣に降って一族を保てと促した。光嗣は泣いて、昔から父が殺されようというのに生きながらえる者がありましょうか、ともに死にます、と言って璋と走り、ここに至って首を吊って死んだ。
- 璋は北門の楼に至り、帳下の指揮使潘稠を呼んで乱を討たせようとしたが、稠は反いて十人の兵を率いて城に登り、璋の首を斬り、光嗣の首も切って暉に渡した。暉は城を挙げて廷隠に降った。
- この一戦で梓・綿・龍・剣・普・果・閬・蓬・渠の九城を得た。廷隠は梓州に入り府庫を封じて知祥を待った。李肇は璋の敗北を聞いてはじめてその使者を斬って報告した。
- 丙戌、知祥は成都に入った。丁亥、ふたたび八千の兵を率いて梓州へ向かい、掲示を出した。その趣旨は、天は親しみを持たず徳ある者を助け、神は昧まされず悪を重ねれば滅ぶ、逆賊の東川節度使董璋は禍心を包み盟約に背き、にわかに兵馬を起こして境を犯したが、鋒に迎えられてたちまち滅び、全軍を失って単騎で逃げ帰った、本府の昭武司徒が大軍を率いて残党を追撃したところ、前陵州刺史の王暉がその滅亡を見てとって福に転じ、璋父子を梟して二つの首を献じ、軍城を保って我が旗を待った、その智勇は賞するに足る、しかも謀は衆人から出たものではないから罪は元凶一人に帰する、心腹の患いを除いた以上、国家の基は永く固まる、というものである。
- 知祥が新都に至ると廷隠が璋の首を献じた。己丑、玄武を発ち、廷隠が東川の将吏を率いて出迎えた。壬辰、知祥は病んだ。
- 癸巳、李仁罕が遂州から来た。廷隠が板橋で出迎えたが、仁罕は東川の功を称えず、かなり侮辱を加えたので、廷隠は激怒した。
- 乙未、知祥の病が癒えた。丁酉、梓州に入った。挙子の勾龍逢が勝利を賀する詩を献じ、知祥は喜んで受けた。
- 戊戌、将士に大いに賞を与えた。宴が終わると知祥は仁罕と廷隠を顧みて、二将のどちらがここを鎮めるべきかと問うた。仁罕は、令公がもう一度蜀州を下さるならそちらへ参りましょう、と答え、廷隠は答えなかった。知祥は驚き、退いて李昊に牒を草させ、二将のどちらかが譲れば一人を留後にしようとした。
- 昊は、かつて梁の太祖も莊宗も四鎮を兼領した、いま二将が譲らない以上、公が自ら領されるのがよい、急ぎ府に帰って趙僕射(季良)と改めて議されよ、と言った。
- そこで知祥は仁罕を遂州へ帰し、廷隠を東川巡検として留め、昊に梓州の軍事を代行させようとした。昊は、二頭の虎がまさに争っているところです、命は受けられません、公に従って帰ります、と言ったので、都押牙の王彦銖を東川監押とした。
- 癸卯、知祥は成都に着き、廷隠もまもなく兵を引いて帰った。
- 知祥は昊に、私は東川を得たが患いはいっそう深まった、と言った。理由を問うと、梓州を発ってから仁罕の書状を七通も受け取り、いずれも公が自ら東川を領すべきだ、さもなくば諸将は服さぬと言ってきた、一方の廷隠は、もともと東川を引き受ける気はなかったが仁罕が譲らなかったので争う心が生じたのだと言う、君は私のために廷隠を諭してくれ、閬州をあらためて保寧軍とし果・蓬・渠・開の四州を加えて鎮めさせよう、東川は私が自ら領して仁罕の望みを絶つ、と述べた。
- 廷隠はなお不満で、仁罕と勝負して勝った方が東川を取ればよい、と言ったが、昊が深く諭してようやく命を受けた。
- 六月、廷隠を保寧軍留後とした。戊午、趙季良が軍府の将吏を率いて知祥に東川をも鎮めるよう請い、許した。季良らはさらに王を称し、墨制を行って功臣に賞賜するよう請うたが、これは許さなかった。知祥はこうして両川を併せ有した。
- しかし璋の死後も知祥はついに使者を遣って唐に謝さなかった。唐の樞密使范延光は、知祥は璋を破ったとはいえ士卒はみな東方の者で、帰郷を思って変を起こすのを恐れており、朝廷の勢いを借りて衆を威圧したいのだから、こちらが意を屈して招かねば向こうから帰順はできますまい、と述べた。唐主は、知祥は私の旧知で、間諜のせいでこの危疑を招いたのだ、旧知を慰撫するのに何の屈することがあろう、と答えた。
- これより先、李克寧の妻の孟氏は知祥の妹であった。莊宗が克寧を殺したのち孟氏は知祥のもとへ身を寄せ、その子の存瓌は唐に留まって供奉官となっていた。唐主は存瓌を遣って母を見舞わせ、あわせて知祥に詔を賜り、董璋は狼のごとく振る舞って自ら一族滅亡を招いた、卿の郷里の親族はみな安全である、家世の美名を成し君臣の大節を守るべきだ、と述べた。
- 秋七月庚寅、存瓌が成都に至った。知祥は存瓌に会ってかなり傲慢な態度をとったが、やがて拝して涙し詔を受けた。
- 乙未、知祥は存瓌を帰し、表を託して謝罪し、あわせて福慶長公主の喪を告げた。これ以後ふたたび藩を称したが、驕り高ぶりはますます増した。
- 八月甲子、知祥は李昊に、武泰留後の趙季良・武信留後の李仁罕・保寧留後の趙廷隠・寧江留後の張知業・昭武留後の李肇らの名で、自分を蜀王とし墨制を行うことを請う表を草させ、あわせて自ら旌節を求めさせようとした。
- 昊は、先ごろ諸将は方鎮を攻め取ってそのまま土地を得たのに、いままた朝廷の節鉞と明公の封爵を自ら求めるのなら、軽重の権はすべて臣下の側にあることになります、と述べた。知祥は大いに悟り、あらためて昊に、自分のために墨制を行って両川の刺史以下を自ら任命できるよう請う表を草させ、別に季良ら五留後を節度使とするよう上表した。
- 九月、知祥は子の仁贊に行軍司馬を代行させ、両川の牙内馬歩都軍事を総轄させた。この月、福慶長公主を星宿山に葬った。
- 冬十月己酉朔、唐はふたたび李存瓌を成都へ遣り、剣南の節度使・刺史以下の官は知祥の任命に任せ、報告さえあれば朝廷は人を除授しないと詔した。また閤門使の劉政恩を宣諭使として遣り、福慶長公主の香典を届け、喪を発して晋国雍順長公主を追贈した。
- これより先、李厳が誅されて以後、唐は刺史を任命するたびに東方の兵に護送させ、夏魯竒・李仁矩・武虔裕はそれぞれ数千人の牙隊を持っていた。蜀兵が遂・閬・利・夔・黔・梓の六鎮を取った際、東方の兵およそ二万人を得た。知祥はその衣食を手厚く給し、あわせて家族を送るよう上表した。唐主は詔で許さなかったが、兵を召し返すこともしなかった。
- まもなく政恩が復命し、知祥は将の朱濕を唐に朝させた。
長興四年(933年)
- 春二月戊申、知祥は墨制によって趙季良らを五鎮の節度使に任じた。
- 癸亥、唐は知祥を検校太尉兼中書令・行成都尹・剣南東西両川節度・管内観察処置・統押近界諸蛮兼西山八国雲南安撫制置等使に任じ、蜀王に封じた。
- この月、王は官を遣って前蜀主王建の墓を修め、樵採を禁じた。
- 三月、王氏の宣華苑で府僚を宴し、左右に、もし王衍が政を怠らず賢臣の補佐があったなら、継岌ごとき小僧にどうしてこうも早く滅ぼされようか、と語った。趙季良は、それも天の時です、廃されるものがなければ君はどうして興れましょう、と答え、王は大いに喜んだ。
- 乙酉、唐はようやく制を下して趙季良ら五人を五鎮の節度使に任じた。
- 秋七月、唐は工部尚書の盧文紀と礼部郎中の呂珂を冊礼使とし、王に一品の朝服を賜った。冊文の趣旨は次のとおり。朕は天の恵みを受け帝業を担い、大信を示して天に法り、至公を執って万民に臨む、善を表し悪を憎んで清濁を分かち、徳を崇め功に報いて山河の誓いを忘れない。姻戚に連なりながら藩鎮の重任を担い、中興を助けて皇家に節を尽くし、誤解に巻き込まれながらも忠貞を守った者がいる。滞りは通じ、気の曇りが晴れて北辰を拱く光がもとどおりとなった。上表はみな誠意の証しであり、遠く貢を修めて職を述べている。その赤心を顕彰し旌表して報い、魚水の歓びを厚くし君臣の道を永く契るため、吉日を選んで徽章を降す。孟知祥は五緯が天を佐け三山が地を鎮めるごとき人物で、七年を経て真に梁棟の材と分かり、十徳を備えて玉器のごとき器量である。先皇帝が八極を経綸し兆民を救ったとき、李通が緯書を述べ鄧禹が霸業に参じたように心を同じくして王朝を扶け、驕らず誇らず寵を恃まなかった。朕が帝位を継いでからは卿が龍城を鎮守し、鉄石のごとく堅く、貢納を欠かさず、険しい山川を隔ててなお日に向かう心を虔しくし、玉帛を馳せて郊天の礼を助けた。かかる臣を得て当代に何を加えよう。董璋は久しく禍の階を作り、ついに逆節を萌し、天地の恩に背いて勲賢に禍を嫁そうとし、重ねて上奏して隣道を誣い、我が民を殺し我が忠良を離間した。卿は表向き同調を装いながら内に憤りを抱き、心を尽くして諭したのに彼は改めず、好機を伺って除こうとした。そこへ璋が叛党を駆って仁封を迫り、毒を吹き牙を奮って人を傷つけたので、卿は妙策を施して全軍を出し、鼓が鳴るや爪を落とすように破り、その巣は自ら潰えて臍を噬む後悔に至った。梓州の妖気は風に払われ、涪州の狂波は鏡のように静まった。朕の憂労を解いたのは卿の韜略であり、その功は景鐘に銘ずべく、史書を飾るにとどまらない。まして誠意を尽くし、魯館の縁を叙し沛中の旧を述べる深い心が見え、亮節が明らかである。疾風なくして勁草は知れず、格別の恩典なくして大功にどう報いよう。よって将壇を築いて王爵に昇せ、二藩の要地を兼ねさせ一字の封を開き、益地の通規に従い、旌功の号を改め、旌鉞を賜い輅車をもって冊する。これらの寵光に卿は恥じず、睦親の義においても朕は恥じるところがない。天の鑑は明らかで、善をなす者に福を降し、君恩は偏らず、勲を立てた者に厚く報いる。始終を敬慎すれば富貴は長く保てよう。ここに前のとおり検校太尉兼中書令・行成都尹・剣南東西両川節度使・管内営田観察処置・統押近界諸蛮兼西山八国雲南安撫制置等使を授け、蜀王に封じ、食邑千五百戸・実封二百戸を加え、忠貞匡国保大功臣の号を改め賜う、散官と勲は元のままとする、担当官は日を選んで礼を備え冊命せよ、というものである。
- 八月乙巳朔、文紀らが成都に至った。これより先、王は自ら九旒の冕・九章の衣を作り、車服も旌旗もみな王者に擬していた。戊申、王は袞冕を着け儀衛を備えて駅に赴き、階を降りて北面して冊を受け、玉輅に乗り、府門に至って歩輦に乗り換えて帰った。
- 王は境内に教令を下した。その趣旨は、威を取り覇を定めるのは公侯の権変の道であり、爵を与え勲を策するのは皇王の報酬の典である、万旅の兵を屯し三川の地に広がり、列国の山河を巡らせて蜀全土を有する以上、権に従って衆に応じなければ功に報いる記録も滞る、いま中朝から命を受けて専断で賞を行える、と述べる。続けて、家世の余慶を承け旌鉞の栄を受け、成都を領して十二年、奢侈は断じて行わず、講武と教民は辺を安んじるために行った、先年は職を述べるに勤めて永い計を保とうとしたが、不幸にも諸藩と深い溝ができた、その際、兵を主る将帥は難を排する功を争い、策を運らす賓僚はみな奇計を尽くした、そこで武旅を興して渠魁を掃討し、破竹の勢いで疆を開き土を拓いた、その他の諸司・庶吏も誠を尽くし功労を著した、褒賞を忘れるはずがない、と述べる。さらに、先ごろ聖上が忠と佞を明らかに分けて冊封を降され、山河を礪帯とする誓いは大君の格別の寵を銘し、輅車と珠冕は列国の栄を表した、そのうえ優遇して墨制を行わせてくださった、上は藩方の任から下は州県の官まで、およそ黜陟については先に行って後に奏することを許された、これで僭越も濫用もない典を保ち、功を立て事を成した者に賞して不均の憂いをなくし、妥当を期したい、遠近に布告して知らしめよ、と結ぶ。
- 九月、三廟を立てた。
- 冬十一月、唐主が没した。十二月、王は訃を聞いて喪服を着け大いに哭し、僚佐に、宋王は幼弱で、政を執る者はみな胥吏や小人だ、その乱は座して見ていられる、と語った。
- このとき蛮人の高曩閣藏・楊夾失朶兒只が衆を率いて帰属したので、碉門・黎雅・長河西・魚通・寧遠の六軍民安撫司を置き、閣藏に「世勲」の二字を賜って安撫を世襲させた。
明徳元年(934年)
- 春正月、黄龍が犍為に現れ、白い鵲が玉局化に集まり、白亀が宣華苑に遊んだ。武泰節度使の趙季良は上表して瑞兆を述べ、文武百官を率いて即位を勧めた。
- 王は、徳が薄く天命を辱めるには足りぬ、蜀王のまま老いれば十分だ、と言った。季良は、将士も大夫も殿下に忠節を尽くし、みな鱗に攀じ翼に付くことを望んでいます、いま大統に即かれねば軍民の推戴の心に応えられません、と述べた。
- 閏正月己巳、王は成都で皇帝の位に即き、国号を蜀とした。この日、大風が吹いて昼が暗くなった。
- 二月癸酉、趙季良を司空兼門下侍郎・同平章事とし、武泰節度使は従前どおりとした。中門使の王處囘を樞密使、李仁罕を衛聖諸軍馬歩軍指揮使として武信節度使を兼ねさせ、趙廷隠を左匡聖歩軍都指揮使として保寧節度使を兼ねさせ、張業を右匡聖歩軍都指揮使として寧江節度使を兼ねさせ、張公鐸を捧聖控鶴都指揮使、侯洪実を奉鑾肅衛指揮副使とした。掌書記の母昭裔を御史中丞、掌書記の李昊と観察判官の徐光溥を翰林学士とした。
- 三月、曽祖父の佚を孝元皇帝(廟号は太祖)、祖父の察を孝景皇帝(廟号は世祖)、父の道を孝武皇帝(廟号は顕宗)と追尊した。使者に書を持たせて洛陽に至らせ、大蜀皇帝と称した。
- 唐の潞王從珂が鳳翔で挙兵した。唐主は西京留守の王思同に討たせ、護国の安彦威が山南西道の張虔釗・武定の孫漢韶・彰義の張從賓・静難の康福ら五節度使と兵を合わせて鳳翔を攻めたが、官軍は敗れ潰えた。
- 夏四月庚午朔、地震があった。張虔釗と孫漢韶が興元・武定の両鎮を挙げて降ってきた。帝は奉鑾肅衛馬歩都指揮使・昭武節度使の李肇に五千の兵で利州に戻らせ、右匡聖馬歩都指揮使・寧江節度使の張業に一万の兵で大漫天に駐屯させて迎えさせた。
- 辛巳、玉冊と玉璽を受け、得賢門に出御して大赦し、明徳と改元した。晋国雍順長公主李氏を皇后に追冊し、夫人李氏を貴妃に冊した。
- 唐の興州刺史劉遂清が三泉・西県・金牛・桑林の戍兵をことごとく撤収して洛陽へ帰したので、蜀兵は進んで散関以南の城鎮を取った。甲申、張業が兵を率いて興元と洋州に入った。
- 五月丁未、唐の階州刺史趙澄が降ってきた。己酉、虔釗と漢韶が一族を挙げて成都へ移った。壬戌、唐の成州を取った。
- これより先、趙廷隠が山南攻略の策を献じたが、帝は兵が疲れ民が困窮しているとして許さなかった。ここに至って勢いに乗じて進み迫り、順次、山南の地を切り取った。
- 六月、大慈寺に行幸して避暑し、唐の明皇(玄宗)と僖宗の御真影を見て、華厳閣の下で群臣を宴した。唐の文州都指揮使成延龜が州を挙げて帰属した。
- この月、帝は張虔釗らを宴して労った。虔釗が杯を捧げて長寿を祝したが、帝は手が萎えて杯を挙げられなかった。はじめ帝は中風を患って一年余りになり、ここに至ってついに病が重くなった。
- 秋七月、雅州に永平軍を置き、孫漢韶を節度使とした。あらためて虔釗を山南西道節度使・同平章事としたが、虔釗は固辞して赴任しなかった。
- 乙巳、帝は七夕に丹霞楼で宴し、宮人が乞巧するのを見物したが、病はいよいよ重くなった。
- 甲子、皇子の東川節度使・同平章事・親衛馬歩都指揮使の仁贊を太子として監国させ、司空・同平章事の趙季良と李仁罕・趙廷隠・王處囘・張公鐸・侯洪実を召してともに遺詔を受け輔政させた。
- その夕に没した。享年六十一。諡を文武聖徳英烈明孝皇帝、廟号を高祖、陵を和陵という。
- これより先、自ら醋頭と号する僧が、燈架を一つ手に提げて行く先々で立て、「燈を得なければ燈は倒れる」と唱えていた。帝が即位して数か月で崩じたので、人はその験だと考えた。
- また帝が蜀に入ったばかりのころ、車を挽く者が通りかかったので、どれほど積めるかと問うと、力いっぱいでも二袋を超えませんと答えた。帝は深く嫌ったが、後に果たして二代で終わった。
- 帝は仁恵によって民を撫し、恩威によって兵を御し、礼によって士大夫に接した。没した日、蜀の人はたいそう哀しんだ。
史論
- 同光の末に莊宗が禍に遭い明宗が入って立ち、中原はもはや沙陀氏のものではなくなった。高祖が西蜀に雄拠して大業を開いたのは、時に乗じた英傑と言えよう。
- 論者はしばしば、遠縁の姻戚であることや君臣の義を持ち出して、勤王せず謝罪もしなかったと責めるが、それは行き過ぎである。
- 李厳を叱って斬るのに顔色一つ変えず、董璋を除くのに算を遺すことなく、東川を平定して山南をも併せたのは、いわゆる天が武威を授けた者ということであろうか。