十国春秋卷四十七 前蜀十三 列傳 杜光庭

要約

杜光庭、字賓至は縉雲の人(一説に長安の人)で、方干に「宗廟の中の宝玉大圭」と評された。唐の咸通年間、九経の科挙に及第せず天台山で道を学び、潘尊師の推挙で僖宗に重んじられ、興元行幸に従ってそのまま蜀に留まった。高祖に仕えて金紫光禄大夫・諫議大夫となり蔡国公に封じられ「広成先生」の号を賜り、儒者許寂・徐簡夫を推薦して太子元膺の東宮に侍らせるなど、政事にも関わった。後主の代には道籙を受けて伝真天師・崇真館大学士となったが、まもなく官を辞して青城山に隠れ、「登瀛子」と号して飧和閣を建て、上清紫虚の吞日月気の法を奉行し、八十五歳で没した。没後も顔貌が生けるがごとくで、人々は尸解とみなしたという。

無為を旨とする文集三十巻のほか、『洞天福地記』『録異記』『陰符経注』『広成義』八十巻、『東瀛子』『青城山記』『墉城集仙録』十巻、『崇道記』『混元図』十巻など多くの著作を残した道教の大家で、蜀に入った際に梓潼で異僧に出会い「今日興元から来た」と語られて驚いた逸話や、仙人から授かったとされる猩の肉のように紅く玉石のように重い驕龍杖の逸話も伝わる。

現代語訳全文

生涯

  • 杜光庭、字は賓至、縉雲の人である(一説には長安の人ともいう)。人となりは性格簡素にして気は清く、器量は広く識見は遠く、方干がこれを見て「これは宗廟の中の宝玉大圭である」と評した。
  • 唐の咸通年間(860~874)、九経の科挙に応じたが及第せず、そこで天台山に入って道を学んだ。長安に潘尊師という者があり、道術は大変高く、僖宗に重んじられていたが、時々杜光庭のことを言上した。僖宗はそこで召見し大いに悦んだ。まもなく興元への行幸に従い、ついに蜀に留まった。
  • 高祖に仕えて金紫光禄大夫・諫議大夫となり、蔡国公に封じられ、「広成先生」の号を賜った。杜光庭は博学で文章をよくし、高祖は常に彼に太子元膺の師とするよう命じた。杜光庭は儒者の許寂・徐簡夫を推薦して東宮に侍らせ、大いに政事を議論し、たいへん意気投合した。
  • しばらくして戸部侍郎に遷った。後主が即位すると、苑中で道籙(道教の秘録)を受け、杜光庭を伝真天師・崇真館大学士とした。まもなく官を解いて青城山に隠れ、「登瀛子」と号した(あるいは「東瀛」に作る)。飧和閣を建て、上清紫虚の吞日月気の法を奉行した。年八十五にして卒した。顔貌は生きているかのようで、人々は尸解(仙人が死体を残して昇天すること)とみなした。清都観に葬られた。
  • 文集三十巻があり、いずれも「無為」を旨とした。その序の毛仙翁の言葉には概ね次のように言う。
  • 「世に道を得る者は、陰を錬って陽を全うし、陰沢はことごとく尽きて陽華だけが独り存する。それゆえ天に上賓(昇天)することができ、道と冥(くら)く合する。すなわち黄帝は龍に駕して騰躍し、王子喬は鶴を控えて飛翔し、赤松子は雨に乗って飄颻とし、列寇(列子)は風を御して上下する。史書の記載は昭らかに著れており、また何を疑おうか。
  • かつて試みにこれを論じてみよう。真一(太一)がすでに分かれ、元精は初めて分かたれ、清気を人と謂う。三才(天地人)はみな妙無に禀(う)けられ、妙有に成る。人の生まれるや、天に参じ地に両(なら)び、気と一体である。天地が長く存する所以は無為だからであり、人が生じ化する所以は有為だからである。情をもってこれを動かし、智をもってこれを役し、是非をもってこれを感じ、喜怒をもってこれを戦わせ、取捨をもってこれを弊らせ、馭努(駆り立て努める)してこれを労する。気は内に耗し、神は外に疲れ、気が竭(つ)きて形は衰え、形が凋(しぼ)んで神は逝き、ついに死に至る。ゆえに言う、『和に委(したが)って生まれ、順に乗じて死す』と。これを常とするのである。
  • 道を修める士は、嗜欲を黜(しりぞ)け聡明を隳(こわ)し、凝然として無心、淡然として無味、視るを収め聴くを反し、万慮はすべて冥(くら)くなり、その後に虚室が白を生じ、自然に脗合(ぴったり合う)する。化の初めを観、物の始めを窮め、浩然として動静するに道と一体となれば、心の之(ゆ)くところを恣(ほしいまま)にし、心の欲するところに従い、是非はこれを乱すことができず、勢利はこれを誘うことができず、寒暑はこれを変ずることができず、生死はこれを干(おか)すことができない。八極の外を指顧し、六虚の表に逍遥し、察せざる所なく知らざる所なく、目はよく洞視し、耳はよく洞聴し、また視聴は耳目によらずしてもよくする。なぜなら、神は未然に鑑(かんが)み、智は無に通じるからである。毛仙翁はまさにその人である」(序は通正元年三月七日辛酉に作られた)。
  • その他の文章も多くこれに類するので、ここには具(つぶさ)に録さない。また『洞天福地記』一巻、『録異記』八巻、『陰符経注』一巻、『広成義』八十巻、『東瀛子』一巻、『青城山記』一巻、『武(本文欠字)山記』一巻、『墉城集仙録』十巻、『崇道記』一巻、『混元図』十巻、『伝受年載記』一巻、『玄門枢要』一巻を著した。また瀘州劉真人碑記・青城県重修冲廟観碑記・雲昇宮広雲外尊師碑記・三学山功徳碑文はみな杜光庭の撰したものである。
  • 杜光庭が初めて蜀に入った時、かつて梓潼で異僧に出会った。その僧は県令の周楽と旧知であり、突然「今日興元から来ました。大変疲れました」と言った。杜光庭はその言葉を奇異に思った。翌日、僧は去った。周楽は杜光庭に「この僧は鹿蘆蹻(俊足の術)を使う古の剣侠です」と語り、しばらく感嘆した。
  • また杜光庭は常に驕龍杖という杖を一本持っていたが、それは紅くて猩(猩猩)の肉のようで、重さは玉石のようであり、まったく藤や竹で作られたものではなかった。仙人に出会ってこれを留め賜ったものだと伝えられている。