十国春秋卷四十七 前蜀十三 列傳 僧貫休
要約
僧貫休、字徳隠、俗姓姜氏は婺州蘭渓の出身で、七歳で出家し、日に『法華経』を千字誦じるほどの俊才として知られ、僧処黙と垣根越しに詩を論じ合って人々を驚かせた。呉越の銭鏐に「満堂の花は三千の客に酔い、一剣の霜は十四州に寒し」の詩を献じ、州を増やせという求めにも「詩もまた改め難い」と応じて気骨を示した。荊南では節度使成汭・高季昌に厚遇されたが、詩の評価や筆法をめぐる不興、時政批判の言辞のために相次いで疎まれ、ついに笠を担いで蜀に至った。
高祖に大いに悦ばれて「得得和尚」と呼ばれ、東禅院、のち龍華道場に住し「禅月大師」の号を賜った。皇帝の誕生日には「堯銘」「舜頌」の二章を献じて高祖の徳を頌える一方、貴戚を諷する「公子行」の詩を詠むなど、諫めの姿勢も忘れなかった。篆隷草書に巧みで「姜体」と呼ばれ、羅漢十六身の像は夢に見た姿を写したという「応夢羅漢」として知られた。肥満で小節にこだわらぬ率直な性格で知られ、体は肥え姿は短く、常に大通りを果物を噛みながら歩いたという。旧知の子弟に縁があると声をかけて馮涓に無礼を疑われた逸話や、杜光庭と馬を並べた際、馬が躓いて落ちたものを数珠かと問われ「これは数珠ではない、大還丹だ」と言い張った軽妙なやりとりも伝わる。永平二年、八十一歳で没し、成都北門外に塔を建てて葬られた。弟子の曇域は戒律に精厳で詩・篆書を能くし、貫休の詩集はみな曇域の校輯によるものである。
現代語訳全文
生涯
- 僧貫休、字は徳隠、俗姓は姜氏、婺州蘭渓の人である。七歳のとき父母がこの上なくこれを可愛がり、本邑の和安寺の圓貞禅師のもとに投じて出家し、童侍となった。日に『法華経』を千字誦じ、耳にわずかに聞いたことも心に忘れなかった。僧処黙と籬(垣根)を隔てて詩を論じ合い、当時の人々は大いに驚異とした。
- 具足戒を受けた後、詩名は大いに震い、そこで洪州に赴いて『法華経』・『起信論』を伝え、いずれもその奥義に精通した。刺史の王慥はこれを見て大いに欽重した。まもなく蔣瓌が洗懺戒壇を開くと、貫休を監壇に命じた。
- 乾寧年間(894~898)、呉越の武粛王(銭鏐)に謁見し、詩を献じて「満堂の花は三千の客に酔い、一剣の霜は十四州に寒し」と言った。武粛王は「四十州に改めてこそ会おう」と命じたが、貫休は「州もまた添え難く、詩もまた改め難い。閑雲孤鶴、何ぞ飛ばざるべけんや」と言った。
- これにより南嶽に登ろうと思い立ち、そこで笠を担いで荊南に遊び、呉融と出会い、往復して詩を応酬し、心が通じ合った。折しも節度使の成汭が誕生日を迎え、歌詩百余章を得たが、貫休の詩もその中にあった。成汭は幕僚の鄭凖に高下を評させたが、鄭凖はその才能を害(そこな)おうとして貫休の詩を第二位に置いた。貫休は怒って「藻鑑(鑑識眼)がこのようであれば、どうして長く続こうか」と言った。
- まもなく成汭が筆法について貫休に問うたところ、貫休は「これは登壇して伝授すべきことで、どうして粗略にできましょうか」と答えた。成汭はその憤りに堪えず、貫休を黔中へ追い遣った。これによって「病鶴の詩」を作り、「聞くならく、気清ければ邪は入らずと。知らず爾(なんじ)の病、いずこより来たるかを」と詠んだ。
- 久しくして再び荊南に至り、高季昌は龍興寺にこれを館(やど)らせたが、時政を感じて酷吏を批判する言辞を作り、また疎遠にされた。鬱悒(憂鬱)の中で硯に「匣に入りてこそ身は安し」と題し、ある者はこれを「匣とは蜀のことである」と解釈し、蜀へ来るよう勧めた。
- ついに成都に至り、陳情頌を奉って「叟あり叟あり、岳の室に居る。忽ち金湯を振るいて彼の巉崪(けわしき山)を下る」云々と述べた。高祖は大いに悦び、彼を「得得和尚」と呼び、東禅院に留め住まわせ、賜物を優渥にし、「禅月大師」の号を署した。
- まもなく龍華道場を建ててこれに住まわせた。高祖は常に近ごろ撰した詩を誦じさせたが、その時貴戚が座に満ちていたので、貫休はこれを諷(風刺)しようと思い、「公子行」を挙げて「錦衣鮮華にして手に鶻(はやぶさ)を擎(ささ)げ、閑行の気貌はなはだ軽忽(軽々しい)。稼穡の艱難を総て知らず、五帝三皇は何物たるかを」と詠んだ。高祖はこれを善しとしたが、貴倖(寵臣)の多くは彼を怨んだ。
- 寿春節(皇帝の誕生日)に、貫休は「堯銘」「舜頌」の二章を進呈した。
- 「堯銘」に曰く。金冊は昭昭として列聖の中に孤高に立つ。仲尼(孔子)に言葉あり、「巍巍たるかな帝堯」と。天の眷顧の命を承け、驕矜(おごり)することがなかった。四徳は炎炎として、階(きざはし)の蓂莢(暦草)は凋まず、永く休(さいわい)に孚(かな)う。衣を垂れて飄颻(悠然)とし、わが皇(当代の帝王)はこれに則った。小心翼翼として陽気を秉(と)り、万物を亭毒(成育)し、食事を取る暇もなかった。土の階に苔は緑に、茅葺きの屋根には雪が滴る。君はすでに天賦の相を得、また天から徳輈(徳の車、天子の位)を賜った。金の鏡をもって聖をもって聖を継ぎ、漢の高祖は将を将とし、太宗は兵権を握った。わが皇はこれに則り、日に新たに徳は盛んになった。朽ちた索(綱)で六頭の馬を制するがごとき危うさでも、その命を墜とすことはなかった。天下は熈熈として、蓼蕭(『詩経』の詩)のように恩沢は潤い、風は調い、干羽(舞の道具)を舞わせ、苑には芻蕘(草刈り木こり、庶民)を入れた。すでに玉のごとくその葉、また金のごとくその枝。枝々葉々、百王はまことに治まり、国を享(う)くること堯の如く、疑いなく疑いなし。
- 「舜頌」に曰く。高き歴山には黍あり粟あり、皇皇たる大舜は堯の玄徳に合し、五典(五つの倫理)をよく従わせ、四門は睦まじく、大道はまさに行われ、天下は公と為り、下に臨めば赫(あきら)かにあり、賢を選び能を用う。わが皇はこれに則り、斁(あ)くことなく逸(おこた)ることなく、その品彙(万民)を綏(やす)んじた。光光として一を得、千幅(多くの人々)は頂に臨み、十(多くの官)は蹕(皇帝の行幸)に随う。大いなるかな大同、光と為り龍と為る。わが皇はこれに則り、聖謀は隆隆として、隍(堀)に納(い)るるを孜孜(つとめる)とし、孜孜切切として六宗(六種の天神)を祀り、五瑞(五種の玉器)を列ね、麟を排し鳳を環(めぐ)らし、香を披き雪に立つ。四方は賮(貢物)を納め、九囲(天下)は截(ととの)いあり。昔、救世の師(仏陀)は竺乾(インド)に降生した。寿春(皇帝の誕生日)もまたしかり。万年万年たれ。
- 高祖はさらに褒賞を加えた。永平二年(912)に卒した。年八十一。翌年、成都の北門外に浮図(塔)を建てて葬った。
- 貫休は累って龍楼待詔・明因辨果功徳大師・翔麟殿引駕内供奉・経律論道門選練教授・三教玄逸大師・守両川僧籙大師の号を加えられ、食邑三千戸、紫の大沙門を賜った。篆隷草書に巧みで、好事家の多くはこれを「姜体」と号した。詩は僧斉己と並び称され、『宝月集』一巻、『西嶽集』四十巻があり、呉融がこれに序を作った。
- また羅漢十六身とともに一仏二大士の像を描いたが、いずれも古野(古めかしく野趣ある)の貌に作られ、人間のものに似ていなかった。ある者は「夢の中で見たものを、覚めた後に図に描いた」と言い、これを「応夢羅漢」と呼んだ。翰林学士の欧陽炯が常にその事を述べる詩を作った。
- 貫休は体は肥えて姿は短く、その肖像の讃は宰相の王鍇がこれを作った。性格は落落として小節にこだわらず、常に通衢(大通り)を徒歩で歩きながら果物を噛んでいた。初めて蜀に来た時、韋荘のもとを訪ねたが、馮涓がたまたま来合わせ、そこで相見えて欣然と手を撫でて「私とあなたの叔父には縁がある」と言ったところ、馮涓は怒って衣を払って去り、後日訪ねても会おうとしなかった。貫休は人に語って「私が得得和尚としてあの人のために蜀に入ったのに、どうして怪しまれるのか」と言った。その率略(軽率で無頓着)なことは多くこのようであった。
- また俳諧(滑稽な戯れ)を好み、ある日杜光庭と馬を並べて道を行く途中、貫休の馬が突然躓いた。杜光庭は連呼して「大師の数珠が落ちましたよ」と言ったところ、貫休は「これは数珠ではない、大還丹(不老不死の丹薬)だ」と答え、杜光庭は恥じ入る色を見せた。
- 貫休の弟子の曇域は戒律の学に精厳で、詩を能くし篆書を善くし、許慎の『説文解字』を重ねて集めて蜀に行った。貫休の詩集はみな曇域の校輯によるものである。