十国春秋十國春秋卷四十七 前蜀十三 列傳(僧智廣ら僧侶、および爾朱先生ら道士)
呉任臣の撰。前蜀に関わった僧侶・外国使節の僧と、道士・術者たちの伝を収める。
僧智廣
- 俗姓は崔氏。はじめ雅州の開元寺にいた。病を治すのに巧みで、竹片を杖として痛むところを叩いて処置すると、たちどころに治らぬことがなかった。腰の曲がった者は伸び、足の悪い者は歩けるようになり、その他の病苦も手を触れるだけで癒えた。
- 乾寧二年(895年)、高祖は智廣を成都の宝暦寺に招き、人々の病を治療させた。得た財はそのまま堂宇の修造に用い、やがて同寺の天王閣に住した。
- こうして病人が競って集まり、日に数千人に及んだ。貧しい者からは金を取らなかったので、当時「聖僧」と呼ばれた。
僧貫休
- 字は徳隠、俗姓は姜氏、婺州蘭谿の人。七歳のとき、両親がことのほか慈しんで本邑の和安寺の圓貞禅師のもとに出家させ、童侍とした。
- 日々『法華経』を千字ずつ誦し、耳にした事はしばらくのちも忘れなかった。僧の処黙と垣を隔てて詩を論じ合ったので、当時の人はしばしば驚嘆した。
- 具足戒を受けたのち詩名が大いに高まった。洪州へ行って『法華経』と『起信論』を講じ、いずれもその奥義に精通していた。刺史の王慥は会って深く敬重した。
- のち(欠字あり)蔣瓌が洗懺の戒壇を開いた際、貫休を監壇に任じた。
- 乾寧年間(894-898年)、呉越の武粛王(銭鏐)に謁して詩を献じた。堂いっぱいの花が三千の客を酔わせ、一振りの剣の霜の寒さが十四州に及ぶ、という句である。武粛王は「四十州」に改めればお目にかかろうと命じたが、貫休は、州も添えがたく詩も改めがたい、のんびりした雲や孤高の鶴はどこへでも飛べる、と言った。
- そこで南岳に登ろうと思い立ち、笠を担いで荊南へ遊び、呉融と出会って詩を応酬し、意気投合した。
- 折しも節度使の成汭が誕生日に百余編の詩歌を得、貫休の詩もそのなかにあった。汭が幕僚の鄭準に優劣を評させたところ、準はその才を妬んで貫休の詩を二番目に置いた。貫休は怒って、こんな鑑識眼で長続きするものかと言った。
- のち汭が筆法を尋ねると、貫休は、これは壇に登って授けるべきもので、いいかげんに扱えるものではないと答えた。汭は憤りに堪えず黔中へ追放した。そこで貫休は病鶴の詩を作り、気が清らかであれば邪は入らぬと聞くが、ではおまえの病はいったいどこから来たのか、と詠んだ。
- 久しくして再び荊南に至り、高季昌が龍興寺に住まわせた。時政に感じて酷吏の辞を作ったため、また疎んじられた。鬱屈するなか硯に題して、匣に入ってはじめて身が安らぐと書いた。ある人が、匣とは蜀のことだと解し、蜀へ行くよう勧めた。
- そこで成都に至り「陳情頌」を奉った。その趣旨は、岳中に住む老翁が蜀の風景と安寧を聞いて訪れたこと、高祖の相貌が龍角・日角で紫気に包まれ、日月を掲げて湯王・武王のごとく世に出たこと、天下の歩みが険しく乱が起こるなか蜀の風俗は整い軍律も厳しいこと、白髪の身ながら忠貞が日を貫くこと、万里が豊かに静まり恵みの雨露が行き渡ること、そして自分は瓶一つ衲衣一枚の素朴な身であり、顧みられたのを幸いとし、鏡のような御世に善吉(須菩提)のごとくありたいと願うこと、を述べる。
- あわせて献じた詩には、瓶一つ鉢一つを提げて老いさらばえ、万水千山を越えてようやく辿り着いた、という句があった。高祖は大いに喜び「得得和尚」と呼び、東禅院に留め住まわせ、手厚く物を賜り、禅月大師の号を与えた。のち龍華道場を建てて住まわせた。
- 高祖はあるとき近作の詩を誦するよう命じた。折しも貴戚が席に満ちていたので、貫休はこれを風刺しようと「公子行」を挙げ、錦の衣は鮮やかで手には鷹を据え、そぞろ歩く物腰は人を見下してばかり、農耕の労苦などまるで知らず、五帝三皇が何者かも知らぬ、と詠んだ。高祖は善しとしたが、寵臣たちには恨む者が多かった。
- 寿春節には「堯銘」「舜頌」の二章を進めた。高祖はさらに褒賞を加えた。
- 永平二年(912年)に没した。享年八十一。翌年、成都の北門外に塔を建てて葬った。
- 貫休は龍楼待詔・明因辨果功徳大師・翔麟殿引駕内供奉・経律論道門選練教授・三教玄逸大師・守両川僧籙大師・食邑三千戸・賜紫大沙門と称号を重ねて加えられた。
- 篆書・隷書・草書に巧みで、好事家はこれを「姜体」と呼んだ。詩は僧の齊己と並び称された。『宝月集』一巻、『西岳集』四十巻があり、呉融が序を書いた。
- また羅漢十六体と一仏二菩薩の像を描いたが、いずれも古朴で野趣に富み、人間界のものらしくなかった。夢に見たものを覚めてから写したので「応夢羅漢」と呼ぶという。翰林学士の歐陽炯がこの事を詩に詠んだ。
- 貫休は体が肥えて背が低く、その像の讃は宰相の王鍇が書いた。
- 性格は磊落で小節にこだわらず、往来を歩きながら果物をかじった。蜀に来たばかりのころ韋莊を訪ねると、たまたま馮涓も来合わせた。貫休は会うなり喜んで手を打ち、私はあなたの叔父上と縁があるのだと言った。涓は怒って衣を払って去り、後日訪ねてきても迎え入れなかった。貫休は人に、私は得得和尚として彼のために蜀へ来たのに、なぜ怪しまれるのかと言った。その粗略ぶりは多くこの類である。
- また戯れ言を好んだ。ある日、杜光庭と轡を並べて道を行くと、貫休の馬が急に走ってつまずいた。光庭が、大師、数珠が落ちましたと繰り返し呼ぶと、貫休は、あれは数珠ではない、大還丹だと答えた。光庭は恥じ入った。
- 弟子の曇域は戒律の学に厳格で、詩をよくし篆書に巧みであった。許慎の『説文解字』を重ねて編み、蜀に行われた。貫休の詩集はいずれも曇域が校訂編集したものである。
僧子朗
- 高祖の代、梁州が大旱に見舞われ祈祷しても効き目がなかった。子朗は州に出向いて、自分は雨を降らせられると言った。
- そこで十石入りの甕を用意して水を張り、その中に身を浸して頭まで水に沈めた。三日で雨は足りた。州将の王宗儔は手厚く遇したが、結局どこへ行ったか分からなくなった。
- 令藹という僧が後日、興州で彼に出会い、その術を尋ねた。子朗は、これは閉気の法にすぎない、一月修めればよい、そのうえで湫潭の中で観想を行い龍と繋がると、龍は定力に抑えつけられて必ず驚き動くので雨が得られる、しかし甕の中でやるほうが害がなくて安全だ、と答えた。
掃地和尚
- 出身は分からない。高祖が開国した後、一人の僧が常に大箒を持ち、役所・邸宅・寺院・道観に行き当たるたびに掃除をしたので、人は「掃地和尚」と呼んだ。
- 掃き終えるといつも「水行の仙は秦川を怕る」と書き付けた。後主が秦川の禍に遭ってはじめて、「水行仙」が「衍」の字であり、後主の名(王衍)を指すのだと悟った。
段義宗
- もと南詔の布燮であった。乾徳年間(919-924年)、判官の贊衛・姚岑らとともに来聘した。
- 義宗は朝拝したくなかったので、髪を剃って僧となり、大長和国左街崇聖寺賜紫沙門と号し、銀の鉢を持った。
- 成都に着くと群臣が、僧には僧なりの膜拝の作法があるのだから拝礼させるべきだと奏したので、義宗はやむなく属国の礼を行った。
- 義宗は詞章に長け、大慈寺の芍薬・三学院の経楼を詠んだ詩や、判官贊衛が歌妓の洞雲歌を聴くさまを題した詩などがある。言論と風采は一時を圧倒した。国師の常瑩・辨廣・光業らが偈語を応酬したが、かなり言い負かされた。
- 久しくして帰国を願い出たが、途中で毒を盛られて没した。
爾朱先生
- 成都の人。字は通微、また帰元子と号した。唐の僖宗の代に金鶏関の下の石室に隠れて煉丹を修めた。
- 久しくして異人が薬を一丸与え、浮く石を見たらこれを服せ、仙道が成る、と戒めた。そこで石を見るたび水に投げて浮くか沈むかを見たので、人はみな狂人と笑った。
- ある日、峡のあたりを歩いていると、老人が舟を寄せて待っていた。姓を尋ねると、涪州の石という姓だと答えた。そこで先生ははたと悟り、異人の言った浮石とはこれかと言い、薬を服して身軽に飛び去った。天復の末年(903年ごろ)のことである。
- 先生には「還丹歌」があり、蜀中に伝わる。
杜光庭
- 字は賓至、縉雲の人。一説に長安の人。人となりは簡素で気は清らか、度量は広く見識は深かった。方干は会って、これは宗廟に置く宝玉、大圭のような人物だと評した。
- 唐の咸通年間(860-874年)、九経の科に応じたが及第せず、そのまま天台山に入って道を学んだ。
- 長安に潘尊師という道術のきわめて高い者がおり、僖宗に重んじられていたが、しばしば光庭のことを話題にした。僖宗は召見して大いに喜んだ。のち興元への行幸に従い、そのまま蜀に留まった。
- 高祖に仕えて金紫光禄大夫・諫議大夫となり、蔡国公に封じられ、広成先生の号を賜った。
- 光庭は博学で文章に巧みだったので、高祖はしばしば太子元膺の師とした。光庭は儒者の許寂・徐簡夫を推薦して東宮に侍らせ、政事の議論にもかなり加わってよく意気投合した。久しくして戸部侍郎に移った。
- 後主が立って苑中で道籙を受けると、光庭を伝真天師・崇真館大学士とした。まもなく官を辞して青城山に隠れ、登瀛子(東瀛子とも)と号した。飱和閣を建て、上清紫虚の吞日月気法を修めた。
- 八十五歳で没したが、顔かたちは生けるがごとくで、人は尸解したと考えた。清都観の後ろに葬った。
- 文集三十巻があり、いずれも無為の趣旨に基づく。毛仙翁の序の要旨は次のとおりである。道を得た者は陰を練って陽を全うし、陰の潤いが尽きて陽の華だけが残るゆえに天に上り道と合一できる、黄帝は龍に乗って昇り、王子喬は鶴を御し、赤松子は雨に乗り、列子は風を御した、史書に明らかである。真一が分かれて元精が分かれ、清らかな気が人となり三才と呼ばれる、みな妙無に稟け妙有に成る。天地が長く存するのは無為だからであり、人が生滅するのは有為だからである。情が動かし、知が使役し、是非が感じさせ、喜怒が争わせ、取捨が疲れさせ、努力が労させる。気は内に耗し神は外に疲れ、気が尽きて形が衰え、形が凋んで神が去り、死に至る。ゆえに和に委ねて生じ順に乗じて死ぬのが常だという。修道の士は嗜欲を退け、聡明を捨て、心を凝らして無心となり、淡泊にして味を求めず、視聴を内に返して万慮を暗ませる。そうすれば虚しい室に白光が生じ自然に合致し、化の初めを観、物の始めを窮め、動と息が道と一つになる。すると心のままに振る舞っても是非に乱されず、勢利に誘われず、寒暑に変えられず、生死に犯されない。八極の外を指顧し六虚の表に逍遥し、知らぬこと察せぬことがない。目は洞視し耳は洞聴し、あるいは耳目によらずに見聞きする。神が未然を鑑み智が無他に通じるからである。毛仙翁こそその人だ、と結ぶ。他の文章もおおむねこの類なので、いちいち録さない。
- ほかに『洞天福地記』一巻、『録異記』八巻、『陰符経注』一巻、『広成義』八十巻、『東瀛子』一巻、『青城山記』一巻、『武(欠字)山記』一巻、『墉城集仙録』十巻、『崇道記』一巻、『混元図』十巻、『伝受年載記』一巻、『玄門樞要』一巻を著した。また瀘州劉真人碑記、青城県重修冲廟観碑記、雲昇宮広雲外尊師碑記、三学山功徳碑文もみな光庭の撰である。
- 光庭が蜀に入ったばかりのころ、梓潼で不思議な僧に出会った。その僧は県令の周樂と旧知で、ふいに、今日は興元から来たのでひどく疲れたと言った。光庭がその言葉を怪しんでいると、翌日僧は去り、樂は光庭に、あの僧は轆轤の跳躍術を使う剣侠なのだと語った。光庭は長く感嘆した。
- また光庭は常に驕龍杖を一本持っていた。猩々の肉のように赤く、玉石のように重く、藤や竹で作ったものではまるでなかった。仙人に出会って与えられたものだと伝えられる。
崔無斁
- 成都の道士。老いて目を病んだ。しばしば算術にかこつけて吉凶を予知した。
- 高祖の代、道士の李暠は旧唐の宗室で陽平化に住んでいたが、内心に謀反の意を抱いていた。あるとき斎会を設け、ひそかに玉局の道士楊徳輝を招いた。徳輝は無斁のもとへ行き、この行きはどうかと尋ねた。
- 無斁が地面に字を書かせると、徳輝は「北」と「千」の二字を書いた。無斁は、千を北に差し込めば「乖」の形になる、あなたが行けば背き(禍)になる、と言った。徳輝は結局行かず、暠は斎会の日に果たして禍に遭った。
楊勛
- 家系は分からない。自ら僕射と号した。空中から自然の還丹を請えば丹がたちどころに降り、また九天玄女や后土夫人を召し出し、一夜を過ごして去らせることもできた。
- 後主はその妖言を憎み、片足を折って西市で殺した。命を終えるとき、詩を詠んで国を失うことを言った。数年も経たぬうちに国は果たして滅んだ。
- 唐の明宗の朝に、楊遷という術士がおり、鬼神を使い物に触れて変化させるのに巧みであったが、のち誅された。勛の甥である。
王帽仙
- 蜀の人。名は伝わらない。ふだん市中に出入りし、人のために破れた冠を繕っていたので「王帽子」と呼ばれた。
- 気ままで自他の区別も忘れたような性質で、夜は涪州の天慶観に寝ていた。ある夜、急死したので道士たちが金を集めて葬った。
- ひと月ほど経ったころ、王が果州から手紙を寄こしてきて、はじめて尸解したのだと分かった。
青城道士
- 姓名は分からない。幻術を使い、いつも人目のない所で法を行った。西王母・巫山の神女、および麻姑・鮑姑ら仙女たちがみな召しに応じて現れた。
- また突然、城中に金の楼閣を出現させて衆人を惑わした。
- 後主はその妖術を知ってひそかに人をやって捕らえさせたが、数か月経っても捕まらなかった。のち青城への道すがら追いつき、犬と豚の血を浴びせて獄に下し、取り調べた。
- 自ら、民間の処女を次々に採り、房中術をほしいままにして死なせた者は数知れないと述べたので、誅された。