十国春秋卷四十六 前蜀十二 列傳 嚴遵美

生涯

  • 嚴遵美の父の季実は唐の掖庭局博士であった。大中年間(847~860)、宮人が宣宗を弑逆しようと謀り、その夜季実は咸寧門下に宿直していたが、変事を聞いて中に入りこれを射殺した。翌日、宣宗は「お前がいなければ、私は危うく免れなかっただろう」とねぎらい、北院副使に抜擢し、最後は内枢密使となった。
  • 嚴遵美は左神策観軍容使を歴任し、常に嘆じて「北司の供奉官は胯衫(内官の服)で給仕していたが、今では笏を執るまでになった。行き過ぎだ。枢密使は庁事もなく、ただ三楹の舎に書を蔵しているだけであった。今は堂状帖黄(文書決裁)で事を決している。これは楊復恭が宰相の権を奪った失策である」と言った。嚴遵美はこれは当時の宦官が横暴を極めたことを憎んでこう言ったのである。
  • その後、昭宗の播遷(鳳翔への遷幸)に従い、梁州で致仕(引退)を求めた。光化四年(901)、嚴遵美を両軍中尉・観軍容処置使に徴したが、嚴遵美は「一軍でさえなすべきではないのに、まして両軍をや」と言い、固く辞して起たなかった。
  • 天復二年(902)、蜀の軍が興元を抜くと、嚴遵美はこれに従って成都に移った。翌年、唐は各地の宦官にみな死を賜るよう詔したが、嚴遵美および西川監軍の魚全禋は高祖に匿われて難を免れた。
  • 高祖が即位すると、内侍監を除せられ、礼遇はいよいよ加わった。しばらくして辞去を告げ、青城山の麓に別荘を構えて住んだ。年八十余にして終わった。子(本貫欠字)は高祖に仕えて閣門使にまで至った。嚴遵美は忠正謙約で、寵を得ても驕らず、鄙叟庸夫(身分の低い者や凡庸な者)ともみな親しく交わることができた。著書に『北司治乱記』八巻があり、宦官の忠佞を詳しく記して世に伝わった。