十国春秋卷四十六 前蜀十二 列傳 安重霸
要約
安重霸は雲州の人。初め晋王李存勗に仕えたが罪を得て梁に逃れ、まもなくまた前蜀高祖のもとへ逃れた。人となり狡猾で智に富み、人に取り入ることを得意とし、高祖はこれを親将とした。後主の代には簡州刺史となり、権勢を握った宦官王承休に深く結びついて自ら身を託し、秦州の鎮を求めるよう王承休に勧め、その副使に取り立てられた。
唐の軍が国境に迫ると、王承休は大いに恐れて安重霸に相談したが、安重霸は「剣門は天下の険で唐軍は越えられないが、ともに西へ行こう」と偽って安心させ、いざ王承休が出発すると馬前に立って「秦隴を失ってはならない、留まって守ろう」と言い、そのまま王承休を置き去りにした。唐の軍がすでに成都に入ると、安重霸はただちに秦・成・階の三州をもって唐に降った。後唐では閬州団練使・左衛大将軍・匡国軍節度使を歴任し、廃帝の代には京兆尹・西京留守、大同節度使に転じ、病により帰郷を願い出て潞州で没した。貨財への貪欲は甚だしく、簡州にいた頃、碁の得意な富商鄧生を日がな一日対局に付き合わせて疲弊させ、賄賂を差し出させてようやく解放したという逸話が伝わる。
現代語訳全文
生涯
- 安重霸は雲州の人である。初め晋王李存勗に事えたが罪を得て梁に逃れた。まもなくまた高祖のもとへ逃れた。安重霸は人となり狡猾で智に富み、人に取り入ることを得意とし、高祖は彼を親将とした。
- 後主が即位すると簡州刺史となった。宦者の王承休が権勢をふるうと、安重霸は深く王承休に結びついて自ら身を託し、王承休に秦州の鎮を求めるよう勧めた。後主はそこで王承休を節度使とし、安重霸をその副使とした。安重霸は王承休とともに多く秦州の花木を取って上献し、後主に東遊するよう請うた。
- 唐の軍が国境に迫ると、王承休は大いに恐れ、これを安重霸に問うた。安重霸は「剣門は天下の険であり、たとえ精兵があってもこれを越えることはできません。しかしあなたは国恩を受けている以上、難事を聞いて赴かないわけにはいきません。あなたとともに西へ行きましょう」と言った。王承休はもとより彼を信頼していたので、そうだと思った。軍を整えて出発しようとしたとき、秦の人々がこれを見送り、城外で帳を張って酒を飲んだ。酒が終わって王承休が道を出発すると、安重霸は王承休の馬の前に立って辞し、「秦隴を失ってはなりません。願わくは留まってあなたのために守りましょう」と言った。王承休は自分が裏切られようとしていることを知りながらも、すでに出発してしまっており、どうすることもできなかった。唐の軍がすでに成都に入ると、安重霸はただちに秦・成・階の三州をもって唐に降った。
- 明宗の時、官は閬州団練使にあったが、罷めて左衛大将軍となった。しばらくして匡国軍節度使となった。廃帝の時、京兆尹・西京留守となり、大同の鎮に転じた。病により帰ることを願い出て、潞州で卒した。
- 安重霸は貨財を貪ることに飽きることがなかった。簡州にいた時、州民に油商人の鄧生という者があり、囲碁を能くして家は頗る豊かであった。安重霸はこれを召して対局させ、終日傍らに侍らせ、一子を落とすたびに命じて西北の牗(窓)の下に退き立たせ、その算路(次の手)を考えるのを待ってから子を進めさせた。一日中で十数子しか打たなかった。鄧生は立ちくたびれ、しかも大いに饑えて堪えられないほどであった。翌日もまた前と同じように召された。ある者がこれを諷(それとなく)示して「刺史は賄賂を嗜んでいる。もともと碁のためではない。なぜ賄賂を差し出して退出を求めないのか」と言い、ついに金十鋌を献じてようやく免れることができた。