十国春秋卷四十六 前蜀十二 列傳 徐延瓊

生涯

  • 徐延瓊、字は敬明、順聖太后の弟である。国戚として武徳軍節度使兼中書令を授けられ、趙国公に封じられ食邑五千戸を得た。まもなく弟の延珪とともにみな太師を加えられた。
  • 乾徳末年、京城内外馬歩指揮使に充てられ、王宗弼に代わって兵権を握り権勢を恃んで衆に頼ったが、諸将はこれを不平とした。唐の軍が国境に入ると、王宗弼は後主の寵臣たちをことごとく殺したが、徐延瓊は潘在迎らとともに家財をもって王宗弼に賄賂を贈り、死を免れることができた。
  • これより先、徐延瓊は土木工事を経営し、錦水の応聖橋の西に邸宅を構え、数坊にまたがってその贅を極め華麗であった。成都には牡丹が極めて少なかったので、徐延瓊は秦州董成村の僧院に牡丹が一株あると聞き、そこで厚く金帛を持たせて三千里を経てこれを取り、新しい庭園に植えた。
  • この時、詔があって内外の皇親に新居祝いを宣布させ、後主も自らその邸宅に行幸したが、突然壁の上に戯れに「孟」の字を書いてこれを嘲った。蜀の方言では「孟」を不吉な意味とするからである。徐延瓊はこの出来事を重んじ、紅綃(紅の薄絹)でその字を覆う籠を作って、寵愛の特別なことを示した。
  • 国が滅びた後、後蜀の高祖はその邸宅を宿舎とした。その先兆はこのようなものであったという。