十国春秋卷四十四 前蜀十 列傳 鄭藝

要約

鄭藝は前蜀後主に翰林学士として仕え、文才に富み筆を加える必要がないほど文章が速かった。代表作は武徳軍節度使趙国公徐延瓊のために撰した碑銘で、蜀人にしばしば伝誦されたという。

碑銘はまず、太宗が仁義を先んじ賢を得て治めるべしと説いた『唐書』の格言を引き、乱世に人材を任ずることの重要性を述べる。次いで高祖が朱全忠による唐弑逆と混乱を機に、億兆の民が依るところなく推戴を望む中で人望を集めて蜀に帝業を開き、唐への恩に報いるために国号を蜀としたことを述べる。さらに明孝皇帝(後主)が受命して天下泰平となり、蛮方・呉越までも化に向かい麟鳳・草木の瑞祥が相次いだにもかかわらず、なお先帝の志を思って賢才の登用に励み、名に循い実を責めて濫りな進退がなかった治世の様子を語る。その上で本題として、正月、武徳軍の将校・吏民・僧道・耆老らが連名で状を上げ、節度使徐延瓊の徳政を朝廷に上聞して碑を建てることと留任を願い出た経緯を記し、皇帝がその願いを聞き入れ、翰林学士鄭藝に詔を下して延瓊の美徳の実を摭い窮まりなく後世に伝えるよう命じたといういきさつを明かす。

延瓊は皇后の兄弟にあたる東海剡の名門の出で、祖父は唐の京兆武功県令から尚書左僕射・太師・高平王を追贈された家柄であった。若くして軍務の才を示し、両度節度使を歴任して辺境を鎮め、四境に刁斗の音なく善政を謳われた。武徳軍節度使として赴任すると、管内に潜んで郡邑を脅かしていた亡命の徒・盗賊を密かに策を巡らせて一網打尽にし、法・礼・農・兵の四つを国政の要と説いて厳格に統治した。商旅の往来を安んじ棗祗・韓浩の屯田策に倣って荒地を開いて貢賦を倍加させ、平衡・加量を厳正にして聚斂を絶ち、刑を慎んで無名の徴税を廃し、獄をあわれんで冤罪を晴らすなど、民の負担を軽くする政策を次々に打ち出した。自らの俸金を恵義寺に寄進して華厳大閣を建てるとともに、老朽化していた府署も新たに造営し、往来する使者への応接にも公帑を惜しまず名声を高めた。その徳政のもとで紫芝が三たび秀で黄犢がともに生まれるなどの瑞祥が相次いだと讃えられ、ついに中書令・趙国公に任じられ食邑一千戸を加えられて以前と合わせ五千戸に至った。銘文は延瓊が文武兼備、智謀は張良・陳平に、威は方叔・召虎に比すべき人物でありながら驕らず、士卒と苦楽をともにして寵姫の色香にも溺れなかったことを称え、その功業が末永く語り継がれることを願う内容で結ばれている。

史論では、この時代の文人たちを総括し、侯翮・王保晦の飛書草檄の才、盧延讓・庾傳昌・楊義方・王仁裕・李珣・尹鶚・張蠙・牛嶠ら文苑の名流の存在、牛希濟が明宗の求めに応じて故君(前蜀主)の運命を悼む詩を賦しながらも故君を謗らなかった風人の体、趙㽔がもとより節操をもって知られその著作もまた埋もれさせてはならないものであることを列挙し、いずれも国の華というべき人材であったとする。鄭藝自身については、辞采は豊かで美しいが、しばしば諛いの筆致や事実を誇張する傾きが見られるとしつつも、それもまた文士に共通する常態であろうと寛容に評している。徐延瓊碑銘の長大な全文が国志に丸ごと収められていること自体、鄭藝の文才が当時いかに高く評価され、後世まで貴重な作品として珍重されていたかを何よりも物語っているといえよう。

現代語訳全文

生涯

  • 鄭藝は後主に仕えて翰林学士となった。文辞は敏捷で豊かであり、筆を加えて直すところがなかった。
  • その最も著名な作に、武徳軍節度使趙国公徐延瓊の碑銘があり、蜀の人々はしばしばこれを伝誦した。

徐延瓊碑銘(全文)

  • 碑文に曰く。
  • 臣は常に『唐書』を読み、密かに見た。太宗はつねに、治平を致すには必ず仁義を先んずべきであり、賢を得れば治まり、人を失えば危ういとした。鑑みるべき格言はもって邃古(遠い昔)を徴するに足る。豈に、化を馴らし服を易えることが、東方を威して斉えることより難しくないと言えようか。しかるに農戦をともに修め、徳刑をともに挙げ、将に乱れんとする時はその政は必ず恭しく、将に弊れんとする時はその風は必ず軽佻となる。九合(諸侯を糾合する)の威を図ろうとすれば、また五臣の佐(補佐)に頼らねばならない。もし衆を害することを憂うるならば、賢を任ずるに若くはない。今を視れば昔を知ることができるのである。
  • 高祖皇帝は、汴の賊(朱全忠)が君主を弑し、唐朝の血統が絶えたことにより、左袒(唐に味方すること)する者が稀であることを聞いた。「漢に帰す」と同声に唱える者は皆、堯を吠えるに倣うようなもので、上下相蒙って酔いに耽り国を惑わした。天下の中、億兆の民は依るところなく、競って推戴の誠を陳べ、君臣の位を正すことを願った。衆の望みに逆らい難く、ついに大いなる図(帝業)を啓き、禍乱を戡定して中興を待ち、盟に協会して大国に帰し、蜀の帝となって唐への恩に報いたのである。
  • 明孝皇帝が受命した六年、天は清く地は寧んじ、珠は聯なり璧は合し、初めて人紀(人倫の綱紀)を修めて、変を時に雍がしめた。皇墳帝典(三皇五帝の書)の精、河図洛書の奥義に至るまで、羲軒(伏羲・軒轅)の際に歩みを進め、文献の間に損益を加えた。しからずんば、何ぞそれ尽善尽美なることかくの如くならんや。
  • かくて蛮方は化に向かい、呉越は珍を輸し、麟鳳は祥を効し、草木は瑞を呈した。まして英賢が間に出て、俊乂(優れた人材)が上に羅生するをや。それでもなお(皇帝は)未だ足れりとしなかった。
  • まさに聖父(先帝)の勤めて求めたところを思い、才哲を登用し、名に循い実を責め、徳を較べ功を論じ、勧めを沮(はば)むことにも謀あり、黜陟(進退)に濫りなことはなかった。乾を鑿ち構を締ぶ(天下を切り開き構築する)のは、まことに睿作(賢明な創業)の功に帰するものである。
  • 国を寿くための陶鎔(教化育成)には、必ず抜きん出た佐(補佐役)があり、以て昌運を扶け、上玄(天)に対越(応答)する。これによって中外の文武・将相・公卿、および庶尹・庶史に至るまで、おのおのその職を率い、天旨を奉じ従った。正月に至り、武徳軍の将校・吏民・緇黄(僧道)・耆老らが状を連ねて護軍使に詣で、節度使徐延瓊の徳政を朝廷に上聞し、碑を勒(きざ)んで記すことを願い、かつその留任を請うた。
  • 上(皇帝)は庶政に憂勤し、百姓を心にかけ、旒を凝らして久しく称歎した。翰林学士(鄭)藝に語って言った、「朕は元元(人民)を司牧し、将に寿域を開かんとし、国内の郡県の治行をことごとく梓橦(徐延瓊の治める地)のようにさせたい。朕、何ぞ憂えんや。それ、吏が官に久しくあることは古の道である。況んや衆の望むところをや。朕は既にその請を許した。卿、朕のためにその美徳の実を摭(ひろ)い、窮まりなき閩(へん、地の果て)に播(の)べて、民の望みに応えよ」と。微臣(鄭藝)は詔を奉じて恐懼し、叙して曰く。
  • 臣聞く、龍、九五に飛べば山川は雲将の霊を効し、鵰、三千を撃てば風木は波臣の化を運ぶ、と。またしても同心同徳、まことに十乱(周初の十人の賢臣)の功を資(たす)けとし、乃ち聖乃ち神にして、永く八元(八人の賢者)の佐に頼る。内には皋・䕫(皋陶・后䕫)のごとき者が協賛し、外には方叔・召虎のごとき者が専征する。神謀はかつ貞(正しく)、師律(軍紀)は具に兼ね膺(あた)り、注意すべきは宜しく宏材に属すべし。これ、わが皇帝の天下を統べるところである。
  • 丕顕たる帝図、この天暦(天の巡り)を顧みるに、四神は雪を践み、五老は星を飛ばし、綸を投じ鼎を負う賢(呂尚・伊尹の類)は争って弘業を伸べ、輅を委ね纓を請う士(軍功を求める志士)は競って深機を奮う。蕙帳は空しくして明月は常に孤り、蒲輪至りて清風自ら激す。ああ、宣武(漢の宣帝・光武帝)の間に居るといえども、いまだわが朝の人を得るの盛んなるには及ばない。
  • それあるいは家は戚里(外戚の里)に連なり、身は斎壇(将帥の壇)に陟(のぼ)り、いよいよ諫損の風を揚げて、驕矜の色を見せない。功は賈復・鄧禹に超え、政は黄覇・韓延寿を邁ぐ者、武徳軍節度使徐公の如きは、これ一時の英と為すべきである。
  • 公、名は延瓊、字は敬明、東海剡の人であり、すなわち国の元舅(皇后の兄弟)である。世々の家系は竒(すぐ)れたものを標し、門風は代々煥(かがや)き輝いた。鎮としては峰鼎の重きをなし、用としては雄鋩(鋭さ)を発揮した。父子はすなわち貴きこと金・張二氏(漢の金日磾・張安世)に比し、兄弟はすなわち政(まつりごと)を魯・衛(周公・康叔の国)と同じくした。八龍(後漢の荀氏八兄弟)の身価を騰げ、一鳳(荀氏の中の傑物)の羽儀に斉しい。阮氏の竹、田氏の荊はみな芳しく茂り、金の相・玉の印はそれぞれ朝の花に輝く。虎符・将壇はともに昼錦(栄達して故郷に錦を飾ること)を観る。あまねく挙げようとすれば、かえって語るに倦むほどである。
  • 公の王父(祖父)は、唐の京兆武功県令にして、追贈されて尚書左僕射・太師・高平王となった。政績はしばしば彰かにされ、勲華は早くに振るった。封侯の志を自ら激しくし、済世の名を夙に垂れた。西晋の殊功(羊祜らの功業)と並び、栄えは邸第に聯なり、南朝の雅望(王・謝の家柄)と、地は顕官・婚姻の謀りごとにおいて、おのおの家を承け用を致すことに著れ、みなその佐命(天子を輔佐する使命)を光り輝かせた。
  • 朱輪(諸侯の車)・華冕(美しい冠)は、豈にひとり恩を推す甲令(爵位を賜る令)のみによるものか。門風は実に先んじて徳を種え、これ賢の奕葉(代々)たること、誰と提衡(比肩)しようか。歴代昌期を佐けてきたのだから、宜しく異気を鍾めるべきである。
  • 公は丘会(生まれ)に秀で大いに爽やかで、霊を炳(あきら)かにし、幼くして英姿を挺(ぬきん)で、夙に雅操を彰した。説礼敦詩(礼を説き詩に篤い)の教えを稟け、経文緯武(文武両道)の才を蘊(たくわ)え、家声を紹(つ)がんと欲して、ついに戎右(軍務)に参与した。
  • 敵国相吞むの候(機会)は、決するところ毫釐(わずか)にあり、陰符必勝の機は、掌握に制せられる。琱戈(彫りを施した戈)・宝鼎は、八命(諸侯の最高位)の栄を崇め、玉帳・金壇は、六韜の妙を神より授けられたようなものである。ゆえに大国に名高くあることができた。
  • 業を良弓(すぐれた将)に嗣ぎ、北を鎮めて文なきを軽んじ、南を征して武なきを恨む。圯橋の霊叟(黄石公)は謀略の伝うべきを謂い、汶水の神翁は功の明らかにして必ず立つを知る。自ら継いで睿睠(天子の御恩顧)を膺(う)けた。
  • 両たび渙符(辞令)を践み、四封に刁斗の音なく、千里に袴襦(善政を讃える謡)の詠がある。
  • 政成りて剖竹(分符、地方官任命)し、重きを擁して金(印綬)を執り、孤児を領し、常に昼夜の巡察に驚くほど勤め、大駕(皇帝の行幸)に扈随し、遠く辺陲を鎮定した。
  • 纔(わずか)に六飛(天子の車馬)を復して将に双節(二つの節度)を分たんとするに、上(皇帝)は郪城の奥壌、潼水の名区をもって(これに授けた)。
  • 粤(ああ)艱難このかた久しく瘡痏(傷)に罹り、獄市には寄する所なく、杼軸(機織り)はみな空しく、群盗は猖狂した。幸いに冦恂(後漢の名臣)の去りし日、遺黎(残された民)は憔悴し、郭汲(後漢の名臣)の来る時を望んだ。改張(改革)することなくば、何ぞそれ治まらしめようか。
  • ここにおいて賢帥を求め、以て雄藩を慰めんとし、そこで公を武徳軍節度使に授けた。轡を攬(と)って速やかに征き、車を下りて悉く理め、豪驁(横暴な者)を弾圧し、疲癃(弱者・病者)を封植(育て養う)し、窮本尋源(根本を窮め源を尋ねる)し、綱を提げ領を振るった。
  • 人を害する者は大なりといえども必ずこれを去り、人を利する者は小なりといえども必ずこれを行った。かつて人に語って言った、「法は政の要である。その堤防を峻しくせずにはいられない。礼は教の本である。その律度を謹まずにはいられない。食は民の命である。その稼穡を勤めずにはいられない。兵は戦の器である。その号令を粛しくせずにはいられない。この四つを率いてその一心を尽くせば、上は朝廷を翼衛することができ、下は藩翰の儀刑となることができる。私はこれを得たのだ。お前たちよ、それを見よ」と。
  • 公は管内に亡命の徒が数多く、しばらく偸生(その日暮らし)に務め、久しく雈澤(湿地)に聚まり、常に虺蜴(毒蛇とトカゲ)のような狡猾な穴とし、みな窮谷に依り、妖しの巣はおのおの幽林を恃んでいることを見た。これを教化しても改まらず、来てはまた叛いた。郡邑はその蹂躙を虞(おそ)れ、路岐(街道)は略奪□に苦しんだ。公は密かに良策を運らし、峭格(厳格)に周旋し、ことごとく私罟(不正の網)に投じられている者を捕らえ、みな禍の胎を挟む者を除いた。その戎兵を益し、その強吏を誡めた。
  • 商旅は滞ることなく、貢奉に艱(かた)きことなく、王尊(前漢の京兆尹)が京兆の威を申べ、龔遂(前漢の渤海太守)が潢池(盗賊)の患を去ったのに等しい。
  • 労徠(民をいたわり招く)に倦むことは稀で、蕩析(離散)した民はみな帰り、動には常規があり、賞には横費(無駄な費消)がなく、上は時の貢を勤め、下は軍需を贍(た)した。
  • 月はいまだその授衣(冬支度)の時に及ばぬのに、仕(民)はすでに纊(綿入れ)を挟む喜びを得、その匱乏を賑わし、彼らの愁顔を解いた。
  • 幸いに夜、犬は驚かず、宵の魚は自ら放たれる。庶獄を哀矜し、刑を慎み恤(あわ)れみ、赭衣(囚人服)を着た者はみなその神明に服し、丹筆(判決の朱筆)は立ちどころにその情偽を分けた。等(税)を加えて聚斂することを絶ち、無名の徴徭を革(あらた)めた。
  • 平衡は錙銖にも謬らず、加量は圭撮(微量)にも欺かなかった。
  • 公はまた仰いで前古を稽(かんが)え、俯して遺踪(前例)を瞰(み)て、棗祗(三国魏の屯田を建策した人物)の地を闢く謀を思い、韓浩(同じく屯田策の建言者)の屯田の計を味わい、膏膄(肥沃な地)を棄てず、黍麦は頻りに豊作となった。夢は果たして牧人に応じ、利は寡婦にも資することができた。
  • 貢賦は倍加し、賦を献ずる者は相望み、また年ごとに軍食を進め、沃潤の卿(塩池管理の官)によって牢盆(製塩の器)の務めを置き、商人は繁く会し、官の帑蔵は委輸され、吏を検して民に通じさせた。
  • 機(仕組み)をよく制し用を矯(ただ)し、時を阜(ゆたか)にし俗をよくし、倹(つましさ)をもって率先し、天銭(銅銭)を貫くのみで、星文を靡(かがや)かせたり宝気を認めたりするようなことはなかった。
  • 雄剣の缺文(銘)があり、奏して課最(最高の考課)が連なり聞こえ、□(底本欠字)本はもって留めるべしとされた。これは富人の術を表すもので、芋区(区画された田)は並び難く、みな済物(民を救う)の方(方法)を知らしめた。
  • 公は鳴社(社日)の嘉辰、繞樞(冬至)の令節をもって、聖寿を祈るに荘厳の懇(まごころ)があり、宗祧(先祖の廟)を降誕の期に祝った。自ら俸金を恵義寺に捨てて華厳大閣を構えた。かつて公の府はいまだ完成せず、軍衛も相応しからざるものであったが、ここにおいて輪奐(美しい建物)を修め、別に規模を創り、庭には虹梁(美しい梁)を架け、門には虎戟を羅(つら)ね、層楼は燕賀(燕が慶ぶ)ことによっていよいよ鼓吹の勇壮さを増し、広厦は翬(きじ)が飛ぶがごとくいよいよ旌旗の色を動かした。
  • 路は衝要にあたり、地は都畿を控え、使者の車は昼夜を分かたず交々馳せ、候館(宿駅)は往来してそこに宿し餉(食事を給する)に、常に公帑を傾けて賓筵を飫(あ)かせた。名声は広く聞こえた。
  • 霊験は昭らかに感じられ、紫芝は三たび秀で、黄犢はともに生まれた。天はただ祥を発し、地は宝を惜しまず、はるかに得禾(穀物の異変)の奇を掩い、登麦(麦の豊作)の文に符する果を得た。徳を歌い仁を詠ずるにも言葉はなお足らず、和を含み気を吐くにも、楽(喜び)はまことに名づけ難い。大いなるかな。
  • 公が俗を問い風を観、財を阜まし職を述べることは、いかにして称することができようか。爵賞はすでに行われ、中外はともに嘉した。ついに冊して中書令・趙国公を拝し、食邑一千戸を加え、以前と通じて五千戸となった。
  • 公は嶽降(山岳の霊を受けて生まれる)にして竒(すぐ)れたるを標し、星精にして異なるを禀(う)け、温かなること珪璧のごとく、郁(かぐわ)しきこと椒蘭のごとし。智は韜鈐(兵法)に合い、言に鉤距(策謀)なく、運籌決勝は荀攸を良平(張良・陳平)に比すべく、鉞を仗(と)り威を祓うことは謝艾を方叔・召虎に同じくするに足る。
  • 機を研(きわ)め理を照らし、操を植え忠を資(と)り、允(まこと)に武、允に文にして、多材多芸である。軍中の謀学、馬上の注書、刀を揮えばたちどころに飛泉を覩、弰(ゆはず)を盤(かま)えれば折れる木の音を聞くのみである。
  • しかもまた自ら満足することを貴ばず、謙るほどにいよいよ光り輝く。士を饗し醪(濁り酒)を投じ、賓を延(むか)えるに帳下の犀渠(盾)・貝冑(貝殻を飾った冑)を着けた者と食を比しくし、みな吮癕(膿を吸う情誼、呉起の故事)に感じ、楼中の螓首蛾眉(美女)には、寧ろ笑嬖(愛妾に媚びる)ことを矜らなかった。
  • 閨門は密かに行い、簪組(官位)は里巷に美談として伝わり、相い風雲を観れば色は宸中(宮中)を動かし、寵詔は既に行われた。
  • 関境(国境)の允諧(調和)を致し、まことに本朝の是れ衛るところとなった。まして家は懿戚(皇室の姻戚)に豊かに、治は殊尤(すぐれた功績)に陟(のぼ)り、心膂(腹心)は連営し雷霆を北落(星宿名、武備の象徴)に蓄え、股肱は重鎮として柱石を東川に寄せる。克くその分憂に副い、合わせて異渥(特別の恩沢)を膺けた。
  • 宜しくその珉(美石)の䴡(あきら)かに徳を瑩(みが)き、図に検して功を懋(さかん)にし、績を著し旄(旗)を擁して化を行い、草を偃(な)びかせるべきである。比屋(軒を並べる民)は侯霸を留めよと乞い、閽(もん)に呌(さけ)びて耿純を借りたいと願う。豈に螭首(碑の頭部の彫刻)翠碑をして末(つい)に文を披いて相い質(ただ)さしめるべきであろうか。
  • 麟台(史官)の彩筆でなければ、写して以て神を伝えることはできない。臣は志、陽秋(『春秋』)を慕うも、工は潤色にあらず、仰いで睿旨に遵い、敢えて殊勲を述べる。曽(かつ)て少女の辞(美辞麗句)もなく、あらかじめ中郎の鑑(後漢蔡邕の鑑識)を怯(おそ)れる。冀(ねが)わくは陵遷り谷変ずとも、なお沈水の文を窺い、地は久しく天は長く、永く生金の字を見んことを。
  • 謹んで銘を為して曰く。
  • 金行(王朝の徳運)は運を啓き、鼎業(帝業)は乾(天)を鑿つ。麟は瑞を御し、鳳は昌年に舞う。層潤(恵沢)は浩として注ぎ、国祚は遐かに延びる。光は宝匣に凝り、福は祥編に藹(さかん)なり。上詰(先祖)は文皇(文徳の帝)を継ぎ、図は増々煥(かがや)く。一を得て羲(伏羲)を践み三に登り、漢の懿(美徳)を綱(すべ)て轢(しの)ぐ。大鑪(天地)を牢籠し、真に宗社を観る。還って微明に資り、旦(あした)に接し大虚は寥寥たり。中に元精あり、物を䴡かにする者を端とし、人を䴡かにする者を英とす。
  • 英英たる徐公は、甿(たみ)として生まれ、脂膏に染まらず、獄市には驚きなく、智は兵より強く、化は行われ民は附いた。しばしば奇功を立て、しきりに寵数を膺けた。帝は徐公を念じ、その務めを斉(ととの)えんとし、すなわち梓橦(梓潼)に騰(の)せ、あわせて饒かな賦を与えた。
  • 公が至れば、時雨は霶霈(大雨)のごとく、枯苗は穎(穂)を耀かせ、涸轍は波を騰げ、姦を推し暴を禁じ、劉(あや)まりを止め訛りを止め、襁負(子を背負う民)は来至し、動植は歌を興す。八政何を先んずるか、食を天と為す。鼓を臥せて農を勧め、冑を免じて田に服す。耒耜は肘を接し、籉笠(雨具・笠)は肩を摩し、閭閻(村里)は風靡し、稼穡は雲のごとく連なる。
  • 衆害はすでに去り、纎悪はみな除かれる。化育を宣べることを頌し、刑書を慎み恤み、徽纆(囚われの縄)は自ら朽ち、囹圄(牢獄)は常に虚し。徭を軽くし歛を薄くし、政は蒲蘆(教化)に協い、老は安んじ少は懐く。遠きは至り近きは粛(つつ)しみ、風雨は時に若(したが)う。
  • 家は給し人は足り、戸は溢れ、版籍の賦は公牘に登り、儲峙(蓄え)は孔(はなは)だ多く、貢輪(貢納の車)は相い属く。神明の正は誰がこれを師とするか。公はともに美を備え、福禄は宜しきに攸(したが)う。位は鳳沼(中書省)に隆く、恩は龍墀(宮殿)に注ぐ。梓人(工人)は徳を頌し、天子はこれを嘉し、そこで荒墟に命じて馨列を奉揚せしめた。
  • 揚子(揚雄)は神疲れ、江生(江淹)は思い絶える。涪水は東に注ぎ、銅山は西に掲(かか)げる。帯礪(黄河が帯のようになり泰山が砥石のようになるまで、の意で永遠を表す)に期なく、永く賢哲を旌(あら)わす。

史論

  • 論に曰く。侯翮・王保晦は飛書草檄(軍書や檄文を速やかに草する)の才があった。盧延讓・庾傳昌・楊義方・王仁裕・李珣・尹鶚・張蠙・牛嶠の諸君子は、みな文苑の名流であり、まことに国の華というべき人々である。
  • 牛希濟は詔に応じて詩を賦し、故君を謗らなかったことは、風人(『詩経』の作者たち)の体を得たと言えよう。
  • 趙㽔はもとより節操をもって知られ、その著作もまた鬱然たるものがあるので、埋もれさせてはならない。
  • 鄭藝の辞采は贍麗(豊かで美しい)であるが、間々諛筆(へつらいの筆致)があり、事が実情に過ぎるところもある。しかしそれもまた文士の常態というべきであろう。