生涯
- 牛希濟は、後主の時代に官が翰林学士・御史中丞にまで累進した。国が滅びると洛陽に入った。
- 唐の明宗は宰相王鍇・張格・庾傳素および牛希濟に対し、それぞれ一韻を賜って蜀主が唐に降った詩五十六字を試作させた。王鍇らはいずれも後主が僭号し荒淫の末に国を失ったことを風刺したが、独り牛希濟だけは「川」の字韻を得て、その詩意はただ天数が尽きたことを述べるにとどまり、君親を謗らなかった。
- 明宗はその詩を得て嘆じ、「牛希濟のように才思が敏妙でありながら両国を傷つけず、はるかに忠孝の心を存する者は稀である」と言い、ただちに雍州節度副使を拝させた。
- 牛希濟はもとより詩辞をもって名を擅(ほしいまま)にしており、著した『臨江仙』二闋には「月は江上に斜めにして征棹動き、晨鐘」の句があり、また「皆道う、人間に勝るものはなし、須らく知るべし、狂客は紅顔の為に死を拚するを」とあり、とりわけ詞家の秀作とされた。
- また牛嶠の『女冠子』に次韻して四闋を作った。当時の人々はこれを盛んに称賛した。『女冠子』の名は、もと唐の駱賓王が王霊妃に代わって李榮に贈った長篇からこれを取って名付けたものである。