十国春秋卷四十四 前蜀十 列傳 王仁裕

生涯

  • 王仁裕、字は徳輦、天水の人である。若い頃は書を知らず、犬馬や弾射を楽しみとしていたが、年二十五にしてようやく学問を始め、その人となりは俊秀となり、文辞をもって秦隴の間に名を知られた。
  • 秦の節度使に辟召されて秦州節度判官となった。王仁裕は成都に入って後主に仕え、中書舎人となった。
  • 後主が東に巡幸した際、王仁裕は翰林学士李浩弼らとともに随行し、道中で詩の応答・吟詠に日も虚しくすることがなかった。
  • 国が滅びると唐に降り、晋・漢を経て官は翰林学士承旨・戸部尚書にまで累進した。乾祐初年(948頃)、貢挙の知貢挙をつとめ、榜を掲げて二百十四人の士を得ると、詩を題してこれを栄えあるものとした。
  • その後罷めて兵部尚書・太子少保となった。周の顕徳三年(956)に卒した。享年七十七。太子少師を贈られた。
  • 王仁裕は音律に通じていた。清泰年間(934~936)、幕僚とともに梁苑で朝客を饗応した際、柳を折って亭の楽が奏でられると、王仁裕はこれを訝って「今日は必ず不吉な出来事があるだろう。楽の音は羽の調で宮の声が混じっている。羽は水に、宮は土に属し、水と土は相克するので、憂いがないはずがない」と言った。しばらくして宴席が終わると、范延光が賓客を引き連れて大猟に出たが、暴走した馬から落馬した。
  • また、晋の高祖が初めて雅楽を定め、群臣を永福殿に招いて宴を催し、黄鍾を奏させたとき、王仁裕はこれを聞いて「音は純粋厳粛でなく、調和の声がない。禁中で争いが起こるだろう」と言った。しばらくして両軍の校尉が昇龍門の外で争い、その声は内にまで聞こえた。人々はこれを神業とした。
  • 王仁裕は詩を作ることを好んだ。若い頃、夢の中で自分の腸胃を割いて西江の水でこれを洗ったところ、江中の砂石がすべて篆籀(古代の書体)の文字になっているのを見た。これ以来、文思は日々進み、生涯に作った詩は一万首に満ち、蜀の人々は彼を「詩窖子(詩の穴蔵)」と呼んだ。
  • 著作に『紫閣集』『乘軺集』『西江集』『王氏見聞録』『玉堂間話』『入洛記』『開元天宝遺事』などの諸書があり、世に伝わっている。また『国風総類』五十巻を編纂し、当時大いに称道された。