十国春秋卷四十三 列傳 林罕
要約
林罕は字を仲緘といい、西江の人で、世に容れられず気ままな性格であったが経史に博く通じ、文章にはしばしば執政者を諷刺する言葉が含まれていたため忌み嫌われ、初め温江主簿、次いで太子洗馬に転じるにとどまった。咸康元年、後主が盃を挙げつつ「北に後唐、南に南詔があり、これを弔い伐つこともできず憂いだ」と漏らすと、側近の顧在珣は「朝廷には十人の臣がおります、何を憂えられましょう」と応じ、林罕へ「十在文」を著させて献上させた。この文は、宮殿造営で禍を招いた王承休、賄賂で動く宋光嗣、忠を尽くさぬ王宗弼、姦計を弄する韓昭、残忍貪欲な歐陽晃、民を害する田魯儔、奢侈を極める徐延瓊、直言せぬ景潤澄、女色で惑わす厳凝月ら十人の佞臣の悪行を一人ずつ列挙し、その専横こそ国の禍乱の根であると暗に示す諷刺の書であった。しかし後主はこれを読んで大笑いしただけで諷刺の意図を理解せず、かえって顧在珣に綵絹五百段と高い官位を与え、国史にまで編入させた。在珣はその褒賞の半分を林罕に分け与えたが、在珣自身はもとより後主の側近であり、林罕の文章を利用して自らの直言の名声を得たにすぎず、林罕本人は結局用いられることなく世を去った。林罕はとりわけ文字学に通じ、『説文解字』二十篇に注をつけ『林氏小説』と名づけ蜀の地で石に刻ませたという。
現代語訳全文
林罕
- 林罕は字を仲緘といい、西江の人である。世に容れられず気ままな性格であったが、経史に博く通じ、しかし文章にはしばしば執政者を諷刺する言葉が含まれていたため、たびたび忌み嫌われた。初め温江主簿に任じられ、次第に太子洗馬(一説に員外郎)に遷った。
- 咸康元年、後主がふいに盃を挙げながら浮かぬ顔をして言った。「北には後唐があり、南には蛮詔(南詔)がある。朕はこれを弔い伐つこともできず、これが憂いなのだ。」時に特進検校太傅の顧在珣が「朝廷には十人の臣がおります、陛下は何を憂えることがありましょうか」と奏上した。退出すると林罕に「十在文」を著して献上させ、その文にこう言わせた。
- 「宮中に土木を興し、手元に猛々しい者を選び、そこで斧鉞を執らせて藩鎮に出させ、遠方に宮殿を飾らせ、御車を遠くまで行幸させる。これが禍の端緒であり災いの根源であるのは、王承休がいるからです。英雄を挫き、佞人・媚び諂う者を持ち上げ、まったく才知もないのに誤って腹心の地位に置かれ、遊び戯れる間に人の生死を決し、枢機の場で仇に報復する。功労がある者はみな棄てられ、賄賂がなければ物事が行われないのは、宋光嗣がいるからです。先帝の付託を受け、大国の棟梁でありながら、忠を尽くさず、退くことも知らず、一族の奢侈をほしいままにし、権勢の驕りにまかせ、ただ貪欲な人物であるばかりで、まことに社稷を支える器ではないのは、王宗弼がいるからです。みだりに高位に昇りながら、少しも忠言正論を吐かず、乱を起こす根本において法令を操る巧みさを発揮し、姦計をほしいままにするにおいては口先の弁舌の才を用い、心も口も危険極まりないのに、なお側近の地位にいるのは、韓昭がいるからです。生まれつき残忍で心は貪欲、軍営を焼き払い、自邸を拡張し、世間の非難の声を顧みず、ただ自らの怒りに任せることばかり思うのは、歐陽晃がいるからです。ひどく民を害し、市中で財を集め、みだりに郡守となって天恩に背き、その害はすでに陽安に広がり、その隠蔽は多く内密のうちに行われるのは、田魯儔がいるからです。君王の母方の伯叔にあたる尊い地位にありながら、ただ奢侈を追い求め、輔弼のことを思わず、邸宅はまるで上苑(皇帝の庭園)のようで、金銀珠玉を貪欲に求め尽くすのは、徐延瓊がいるからです。外では留守(都の留守居役)となり、内では枢機を掌りながら、直言をもって君を補佐することなく、ただ諾々と主君の意に従うだけなのは、景潤澄がいるからです。女色を捜し求めて君心を悦ばせようとし、常に順序を超えた恩寵を貪り、限りない寵愛を得ようとし、対応はただ機敏さを誇るばかりで、時世を補佐する経綸を知らず、もとより忠勤の心はなく、まことに地位を盗んでいるだけなのは、厳凝月がいるからです。亡国の音楽を歌い、時流に従う奢侈を誇り、常に巫女や祈祷師を用いて聖明の君を惑わし、君主を桀・紂のような暗君に仕立て上げ、上に唐虞(堯舜)の徳を欠かせているのは、(十番目の)臣がいるからです。陛下がこのように臣を用いておられるのに、どうして社稷が安んじられぬことを憂えられましょうか。」(『鑑戒録』には「唐の『十在』は書物に著され古今の美談となり、君臣の強盛を顕彰するものであった。それゆえ林罕もまた前蜀の『十在』を著し、その禍乱の萌芽を明らかにし、君臣の醜態を示したのである」とある。)
- 後主はこれを見て大いに笑い、在珣に綵絹五百段を賜い、右金吾衛将軍・開府儀同三司・検校太尉を加え、あわせて所司に命じて国史に編入させた。在珣はその半分を罕に贈った。在珣はもとより後主の側近であり、罕の文章を誤って利用して直言の名を売ったのであり、罕はついに用いられることなく没した。罕はとりわけ六書(文字学)に長じ、常に『説文解字』二十篇に注をつけ、『林氏小説』と名づけて蜀の中で石に刻ませた。