十国春秋卷四十三 列傳 蒲禹卿

要約

蒲禹卿は成都の人で、無位無官の頃から慷慨として直言を好み、こそこそと人にへつらい仕えることをよしとしなかった。後主の乾徳四年、制科の対策で「朝廷の政はその場しのぎばかりで、朱紫の衣を着る者はみな盗跖のような輩、郡県の者は狼虎のようで、これで治まりを求めるのは逆さまに行くようなものだ」と朝廷の腐敗と佞臣の跋扈を痛烈に批判し、執政者は激しく怒って誅殺しようとしたが、後主はその言葉に見るべきものがあるとして右補闕に抜擢した。まもなく秦州節度判官に転出すると、後主の東方巡幸を諫める二千言に及ぶ上表を奉り、若い後主が富貴の中で色と酒に惑溺していること、秦州は羌族が入り交じり瘴癘の多い危険な地で、鳳翔・唐国との緊張もはらむことを説き、秦の始皇帝の東方巡狩や隋の煬帝の南巡が国を滅ぼした故事、成漢の李勢が桓温に屈し蜀漢の劉禅が鄧艾に降った教訓を引いて強く諫めた。しかし佞臣の韓昭はこれに激怒し、「主上が帰られたら獄吏に一字一字問い質させてやる」と言い放った。まもなく唐(後唐)の大軍が至り、後主に従って唐に帰順したが、後主が処刑されるとこれを慟哭し、「蜀の人々はこれよりいっそう不幸になるだろう」と嘆いて駅の門に詩を題して姿を消し、その後の消息は分からなくなった。

現代語訳全文

蒲禹卿

  • 蒲禹卿は成都の人である。無位無官のころから、慷慨として直言を好み、こそこそと人にへつらい仕えることをよしとしなかった。後主の乾徳四年、制科(特別選抜の科挙)の対策(答案)において、おおよそ次のように述べた。「今、朝廷が行っていることの多くはその場しのぎのことばかりであり、公卿が上申することは子や孫の代のための計ではなく、目先の安逸を一時的に貪るばかりで、後々の憂いを考えておりません。朱や紫の衣を着る者はみな盗跖のような輩であり、郡県にある者はみな狼や虎のような人物です。奸佞の者が朝廷に満ち、貪欲淫乱であることは市場のようです。これで治まりを求めるとは、まさに『逆さまに行く』というべきことです。」執政者は激しく怒り彼を誅殺しようとしたが、後主はその言葉に益ありとして右補闕に抜擢した。
  • まもなく秦州節度判官として外に出された。折しも安重霸らが後主に東方への遊幸を請うたので、禹卿は表を上り、その長さは二千言近くに及んだ。その概略は次のようなものであった。「先帝は艱難の中で創業なさり、これを万代に伝えようとされました。しかし陛下は若くして富貴の中で育ち、色と酒とに惑溺しておられます。秦州の人は羌族が入り交じり、地には瘴癘(風土病)が多く、多くの民は駆け回ることに苦しみ、郡県は供給に疲弊しております。鳳翔とは長らく仇敵の間柄で、必ず衝突の火種となりましょうし、唐国とはようやく友好を通じたところで、疑いや二心を懐かれるおそれがあります。先皇はかつて理由もなく遊び回ることはなさいませんでしたが、陛下は思いのままにたびたび宮闕を離れておられます。秦の始皇帝は東方に狩りをして鑾駕(御車)が還ることなく、隋の煬帝は南に巡幸して龍舟が帰ることはありませんでした。蜀の都は強盛で隣国を睥睨する勢いにありますが、辺境には烽火の心配がなくとも、国内には腹心の病がございます。百姓は主を失い、盗賊は公然とはびこっております。昔、李勢は桓温に屈し、劉禅は鄧艾に降りました。山河の険しさ堅固さも、頼みとするに足りません。」
  • さらにこう述べた。「天水の地は遠く険しく、行くことが困難です。険しい桟道は雲にかしぎ、危うい峰は天に突き刺さり、石の崖はわずかな雨でも崩れ、桟道はわずかな泥でも□(欠字)となります。とても御車を走らせることなどできず、まして鑾(帝王の車)を鳴らして進めることなどできましょうか。そもそも蜀国はこれまでも創業に際して長久の計に乏しく、その徳が二代と続かなかったり、その位が七代と続かなかったりしたことがありますが、これはみな直言を顧みず、王道を行わなかったために、亡国に至ったのです。」(何光遠の『鑑戒録』には禹卿の上表の全文を次のように載せている)
  • 韓昭はこの禹卿の表を得て大いに怒り、叱って言った。「主上が西からお帰りになったら、獄吏に一字一字問い質させてやろう。」まもなく唐の軍が大挙して至り、後主に従って唐に帰った。後主が誅殺されるに及び、禹卿は慟哭して「蜀の人々はこれよりいっそう不幸になるであろう」と言い、駅の門に詩を題して逃げ去り、その後の消息は分からない。