十国春秋卷四十三 列傳 蕭懐武

蕭懐武

  • 蕭懐武は計略に長け、兵事に巧みで、後主に仕えて小院使となった。これはもとの軍巡(治安を司る役)の職である。懐武の配下に属する者を「尋事団」と呼び、また「中団」ともいった。中団は百余人おり、各人がそれぞれ十数人の私兵を養い、動静を偵察して報告させることを密かな任務としていた。これにより懐武は巨万の富を積み、邸宅や歌舞音曲は一時の第一とされたが、また常に人を殺して威福を示した。ある術士が緑の衫を着て成都の市中で金でできた薬を売っていたが、懐武がその術を乞おうとして堅く拒まれると、馬院で杖に打たせて殺した。その横暴なことはこの類であった。功を積んで戎州刺史に至ったが、後主が唐に降ると、懐武は眉州刺史鮮于臯とともに反乱をたくらみ、老若を問わずみな市で処刑された。

史論

  • 論じて言う。張武の峡江での戦いは、古の名将にどれほど勝るとも劣らぬものである。王暉が黙って祈って水泉を得たのは、至誠が神を感動させたと言うべきか、あるいは天が実際に助けたのであろうか。思諤は主君を誘って各地を巡遊させ、ついに敵国に額をつけて降った。懐武は生まれつき凶悪な性で、死に際も善からぬものであった。この四人はみな王氏の武臣であるが、薫(かんばしい草)と蕕(くさい草)が同じ器に入らぬように、善悪の異なることがこれによって知られよう。