十国春秋卷四十二 列傳 劉知俊

要約

劉知俊は字を希賢といい、徐州沛の人。若くして時溥に仕えたが、時溥が梁王朱全忠と争った際、麾下の兵二千とともに全忠に降り、勇猛さで知られ「劉開道」の名は軍中に重んじられた。邠州の楊崇本の攻撃を命令を待たず撃破するなど各地で戦功を挙げ、梁主即位後は西路行営招討使として岐・邠の兵を破り彭城郡王に封じられた。しかし梁主が猜疑心強く諸将を粛清する中で王重師が無実の罪で殺されたことに恐れをなし、河東出兵への召還命令を拒んで同州をもって岐の李茂貞に帰属した。岐でも雍・華を攻め霊武方面で梁軍を破る戦功を挙げたが、側近の讒言により処遇を疑われ、夜のうちに一族を挙げて蜀の高祖のもとへ投じた。高祖は知俊を武信軍節度使として厚遇しつつも、その才を内心忌み「私が死ねば知俊はお前たちの手に負えなくなる、早く手を打つに越したことはない」と側近に語るほど警戒し、国人も彼を妬んだ。知俊が丑年生まれで色黒であったことから、王氏一族の「宗」の字の名にかけて彼の破滅を予言する童謡「黒牛が圏を出れば棕縄が断たれる」が流行し、宦官唐文扆の讒言も重なって、ついに判官石欽若とともに炭市で処刑された。刑に臨んで怯えて命乞いをする姿は執行の者たちに嘲り笑われたと伝えられる。

現代語訳全文

梁への仕官

  • 劉知俊は字を希賢といい、徐州沛の人である。若くして時溥に仕えたが、時溥が梁王朱全忠と互いに攻め合ったとき、知俊はその麾下の兵二千人とともに全忠に降り、全忠は左開道指揮使とした。知俊は姿かたち雄々しく、甲をまとって馬に乗り、剣を振るって敵中に入ることができ、その勇猛さは諸将の中でも際立ち、当時「劉開道」の名は軍中に重んじられた。海・懐・鄭三州の刺史を歴任し、青州攻略戦にも従った。
  • 匡国軍節度使を上表していた邠州の楊崇本が兵六万をもって雍州を攻め、美原に駐屯したとき、全忠がちょうど諸将とともに滄州を攻めていたので、知俊は命令を待たずに康懐貞らとともに崇本を撃破し、二万を斬首・捕虜とし、馬三千匹を得、副将百人を捕らえた。ほどなく全忠が皇帝の位に即くと、知俊は西路行営招討使を拝し、幕谷で邠・岐の兵を破った。折しも延州の高萬興が叛いて崇本が梁に降ったので、梁主は知俊に萬興とともに丹・延・鄜・坊の四州を攻め下させ、検校太尉兼侍中を加え、大彭郡王(一説に彭城王)に封じた。

岐への出奔と最期

  • 知俊の功はますます高くなったが、梁主は生来猜疑心が強く、たびたび諸将を殺した。王重師は無実の罪で殺され、知俊は内心ますます恐れて安んじられなくなった。まもなく梁主は知俊に勝ちに乗じて邠州を取るよう命じたが、知俊は軍糧が足りぬことを理由に辞し、行かなかった。やがて河東への出兵を企てると、宣徽使の王殷を遣わして知俊を朝廷に召し、行営都統に任じようとした。知俊の弟の知浣は親軍指揮使であったが、ひそかに人を遣わして知俊に「行くべきではない」と止めさせた。知俊はついに同州をもって叛き、岐に帰属した(知俊が同州を治めていたとき、営塁の壁を築く際に、重さ八千余斤で油の入った袋のような形をした一物を掘り当てた。賓客や幕僚を召してこれを問うと、ある者は「地囊」といい、ある者は「飛廉」といい、ある者は「金神七煞」というなか、参謀の劉某だけが「これは冤罪の魂です。昔から牢獄の地にはこうした物があり、かつて王世が河南の獄を修めた際にもこの物を得たことがありました。囚人の死んだ魂が地に入り込み、凝り固まって消えずに残ったものです。よろしく酒食を供えてその冤を晴らしてやるべきです。黒い気が天を衝くはずで、これはまさに追放の徴です」と言った。まもなく、知俊は果たして梁に背いて秦(岐)に付くこととなった)。
  • 知俊は兵を率いて雍・華を攻め、劉捍を鳳翔で捕らえた。梁主は人を遣わして「朕はそなたを厚く待遇してきたのに、なぜ朕に背くのか」と言わせると、知俊は「王重師は陛下に背いていないのに一族を滅ぼされました。臣は徳に背くのではなく、ただ死を畏れるだけです」と答え、そのまま兵をもって潼関を断った。梁が劉鄩を遣わして知俊を攻めさせ、また知俊の甥の嗣業に招かせると、知俊は軽騎で謝罪に赴こうとしたが、弟の知偃がまたこれを止めたので、ついに一族を挙げて岐王李茂貞のもとへ逃げた。茂貞は領地が狭く、知俊を処遇する余地が乏しかったが、中書令を加え、西に霊武を攻めさせた。朔方節度使の韓遜が梁に急を告げると、梁は康懐貞らを遣わして邠寧を攻めさせ救援したが、知俊は昇平で懐貞を大いに破った。茂貞は喜び、知俊を彰義節度使として涇州に鎮させ、興元を攻めさせて興州・鳳州を取り、西県を包囲させた。まもなく岐の将李彦康(『資治通鑑』では李保衡とするが、今は『蜀書』に従う)が李彦魯を殺し、邠寧二州をもって梁に付いたので、茂貞は知俊に邠州を攻めさせたが、梁は霍彦威にこれを守らせ、長く攻めても落ちなかった。折しも秦州はすでに高祖に帰し、知俊の妻子はみな成都に移されていたが、茂貞の側近が知俊の功を妬み、さらに讒言を加えたので、知俊は夜のうちに親兵を率いて蜀に投じた。
  • 高祖は知俊を武信軍節度使とし、第一招討に充て、引き返して茂貞を攻めさせた。翌年、また詔して西北面都招討としたが、岐討伐は功を挙げられなかった。高祖は知俊を厚く遇したが、同時にその才をひそかに忌み、常に側近に「私も老いた。私が死ねば、知俊はお前たちの手には負えぬ者になるだろう。早めに手を打つに越したことはない」と言い、国人もまたこぞって彼を妬んだ。知俊は色黒であり、生まれた年は丑年にあたっていた。高祖の諸子はみな「宗」の字を継いで名としていたので、里巷ではこれをもじって「黒牛が圏(おり)を出れば、棕縄(つな)が断たれる」(一説に「黒牛は繋ぎ止められず、棕縄はたちどころに断たれる」)という童謡が作られ、高祖はますます知俊を憎んだ。
  • 折しも宦官の唐文扆がしばしばその欠点をあげつらったので、ついに判官石欽若とともに炭市で処刑された。処刑に臨んだとき、知俊は怯えて命乞いをし、刑を執行する者たちはこれを嘲り笑った。時に天漢元年十二月のことである(案ずるに、『朝野僉載』所載の童謡に「(欠字)(欠字)黒牛を引く、天の配剤は自由にならぬ、ただ戊寅の年を見よ、蜀江のほとりに揚がるであろう」とあり、これは王建が知俊を殺してその骨を粉にし蜀江に散らせたことを指すもので、それはまさに戊寅の年であった。これによれば知俊の死は光天元年にあたるはずであるが、ここでは『資治通鑑』に従っておき、年月の当否は明らかにしない)。