十国春秋卷四十一 列傳 許寂

要約

許寂は会稽の人で、若くして四明山に隠棲し、易学を晋の徴君(隠者)に学んだ。天復五年、趙匡明とともに蜀に亡命し、その名声を聞いた高祖に館舎で迎えられ、開国に及んで左諫議大夫・判門下省となった。武成初め、求賢の詔を上って、埋もれた賢才を広く求め官に登用すべきだと訴え、高祖に嘉納された。まもなく杜光庭の推薦で徐簡夫とともに太子元膺の東宮に侍したが、元膺には礼遇されず疎んじられた。ほどなく吏部侍郎に抜擢され、光天年間、後主の代には張格の党として一時官を貶められるも、しばらくして礼部尚書に復し、乾徳六年には中書侍郎同平章事となった。張格が再び宰相となり旧恨みから中書の吏を杖で打ち殺すと、寂は「張公は才は高いが見識が浅い、これは禍の端緒だ」と人に語って評した。唐(後唐)の侵攻に際しては王鍇らとともに降伏し、洛陽に至って尚書の位で致仕、庭園を営み水を引いて竹の浮き橋を架けるなど晩年を風雅に過ごした。若い頃、四明山で夫婦の剣客や頭陀(行脚僧)と出会い、腕から取り出した剣が空中で撃ち合う不思議な剣術を目撃したが、自らは道術を学ぶことを辞退した逸話も伝わる。

現代語訳全文

許寂

  • 許寂は会稽の人で、若くして四明山に隠棲し、易学を晋の徴君(徴召された隠者)に学んだ。天復五年、趙匡明が蜀に亡命してくると、寂はこれとともに行動し、高祖はその名声を聞いて館舎に迎えた。開国に及んで左諫議大夫、判門下省とされた。
  • 武成の初め、求賢の詔書を上って言った。「歴代の君主は時機に乗じて国運を開くとき、名だたる士を広く尋ね訪ね、優れた計略を詳しく求めなかった者はありません。武をもって禍乱を平定し、文をもって康寧をもたらしました。それゆえ黄帝は六相に命じ、虞舜は八元を挙げ、伯禹は昌言を拝し、成湯は一徳の臣を師とし、周には多くの賢士がいて文王はこれによって国を安んじました。これは前代の大いなる常道であり、賢を求めることの至誠であります。今、多くの臣下の中には、国策を立てるに足る謀のある者、賊を討つに足る勇のある者、あるいは治国の要諦を広く究めた者、あるいは変化の源を精しく知る者がおり、いまだ朝廷において頭角を現さず、なお下位に光を秘めている者もおります。伏して望みますに、聖明の略を広め、門戸を開く図をなし、みずから顧問を賜って能力をご覧になり、これを官位に置いて存分にその献策と諫言を尽くさせ、官に失政なく、人に埋もれた才のないようになさいますように。」高祖はこれを嘉納した。
  • まもなく広成先生杜光庭の推薦により、徐簡夫とともに東宮に侍することとなったが、元膺には礼遇されなかった。ほどなく吏部侍郎に抜擢された。光天年間、後主が即位すると、張格の党であるとして官を貶されたが、しばらくして礼部尚書に復した。乾徳六年、中書侍郎同平章事を拝した。この時、格が再び宰相となり、以前からの遺恨で中書の吏王魯柔を杖で打ち殺した。寂は人に語って言った。「張公は才は高いが見識が浅い。魯柔一人を殺したところで、他の者は誰も自分の身の安全を保証できないと思うだろう。これは禍を招く端緒である。」唐の軍が国境に入ると、王鍇らとともに唐に降った。洛陽に至り、尚書の位で致仕し、園林や邸宅を修め、水を引いて渓流とし、大きな竹を架けて浮き橋とし、竹は龍に化すると言って「会龍橋」と名づけた。後に病で没した。
  • 寂は初め四明山にいたとき、道士の服を着てその地を行き来していた。ある日、夫婦者が酒壺を提げて「今日は剡県を離れてきた、まことに疲れた」と言うのを見かけた。寂は「道のりはかなり遠いのに、どうして一日で来られるのか」と、内心不思議に思った。ほどなく夫の方が拍板を取り出して高らかに歌い、続いて剣術を語り出し、腕の間から二つの物を取り出して開いて叫ぶと、それは二振りの剣となって寂の頭上に躍り上がり、旋回し交わって撃ち合った。寂は驚き怖れたが、まもなくそれらは鞘に収められた。酒を飲み終えて寝ると、明け方には寝台は空になっていた。日中、頭陀(行脚僧)がまたこの夫婦を訪ねてきたので、寂はその一件を詳しく話すと、頭陀は「私もその仲間だ、道士殿はこれを学べるか」と言った。寂は「私は若くして玄教を尊んできましたが、これを行うことは望みません」と辞退した。頭陀は傲然と笑い、寂の浄巾を取って足を拭き、ためらう間もなく姿を消した。後に再び華陽でこの三人に出会い、初めて三人ともに剣客であったと知った。