十国春秋十國春秋卷四十一 前蜀七 列傳(鄭頊・潘岏・李紘、張格ら、毛文錫ら)

呉任臣の撰。前蜀の使臣(鄭頊・潘岏・李紘)、宰相級の文臣(張格・許寂・王鍇・庾伝素)、および毛文錫以下の側近文臣の伝を収める。

鄭頊

  • 延陵の人。高祖が西川に節を建てると、頊を節度押牙とした。その弁舌と風采は当時の人々を魅了した。
  • 景福元年(892年)、朱全忠が宣義節度使であったころ、高祖は頊を全忠のもとへ使者に立てた。全忠が剣閣の道の険しさを尋ねると、頊はその険峻さを極言した。全忠が「では君の主人はどうやってそこを越えたのか」と問うと、頊は「ありのままを申し上げねば、令公の軍機を誤らせると存じます」と答え、全忠は大笑して送り出した。
  • 武成初(908年)に宣徽北院使となり、まもなく内枢密使を授かった。唐道襲の不正を摘発しようとしたが、道襲は策を用いてこれを退け、頊は果州刺史として出された。

潘岏

  • 蜀の人。博学で議論に長け、風采がすぐれていた。高祖が西川に鎮していたとき押牙に任じられた。
  • 天復元年(901年)、東平王朱全忠が初めて四鎮を兼ねると、高祖は岏を遣わして誼を通じさせた。
  • 岏は汴に着くと、言葉は柔軟で行き届き、酒を一石飲んでも乱れず、杯を重ねるごとに礼儀作法がいっそう厳正になった。全忠はこれを愛し、酒たけなわのころ「押牙はまだ豪飲できるか」と問うた。岏が遠慮して辞すると、全忠は席上の叵羅・尊・罍などの器を集め、順に酒を注いだ。岏は一気に飲み干し、いよいよ温厚に振る舞った。
  • 全忠はただちにそれらの器をすべて岏に賜り、宿舎に戻ればさぞ酒を吐いて倒れているだろうと考え、人をやって様子を探らせた。ところが岏は筍の皮の冠をかぶり、ゆっくりと賜った酒器を整理し、洗って収めていた。当時、雅量ある人と称された。

李紘

  • 高祖に仕えて将作監となった。梁の太祖が没すると(912年)、紘を汴へ弔問に遣わした。
  • これより先、梁の使者が来聘した際、その印には「大梁入蜀」の文字があった。そこでこのたびは印を「大蜀入梁之印」と刻ませた。
  • 紘は臨機応変の応対の才があり、国人は君命を辱めなかったとしてこれを称えた。

史論

  • 鄭頊は文藻が壮麗で応対に余裕があり、潘岏は幾杯重ねても悠然として、徳が酒に酔わされなかった。いずれも使節の人選にふさわしい。
  • 李紘の隣国弔問は、傲慢でもなく卑屈でもなく、要するに前の二人に恥じないものであった。

張格

  • 字は義師(小字だともいう)。代々河間の人。唐の左僕射張濬の次子。
  • 若くして才を負い、俊敏でありながら策謀を好み、父の風があった。
  • 乾寧三年(896年)、濬は致仕して長水県の別荘に住んだ。徳王の廃立をめぐって、濬は諸藩に書を送り王室の匡復を図った。青州の王師範が挙兵したときには、ひそかに濬を迎えて謀主にしようとした。事は成らなかったが、梁王朱全忠は簒奪を謀るにあたり張全義にひそかにほのめかして濬を除かせた。楊麟が精兵を率いて別荘を囲み、濬を殺した。天復三年十二月(903年)のことである。
  • 永寧県の吏に葉彦という者があり、張氏から厚遇されていた。楊麟が来ることを察知し、駆けつけて格に「相公の禍は避けられません。若君は自ら身の処し方をお考えください」と告げた。格と濬は父子で泣いた。濬は「留まれば共に死ぬ。去れば血筋が残る。私のことで足手まといになるな」と言い、格は拝礼して去った。葉彦は義士三十人を率いて漢江を渡らせてから戻った。
  • 格は荊江から三峡をさかのぼって成都に入った。高祖は翰林学士に抜擢した。
  • このころ唐が乱れ、多くの人士が両川に身を寄せて難を避けた。高祖は一兵卒から身を起こしたが智略に富み、士をよく遇したので、用いた者はみな唐の名臣・名族であった。なかでも格への厚遇は際立っていた。
  • 武成元年(908年)に中書侍郎・同平章事を拝し、累進して右僕射・太傅を加えられた。
  • 梁の使者盧玭らが来聘し、高祖を兄として立てたが、その印文に「大梁入蜀之印」とあった。格は高祖に「唐の先例では四方の異民族に使者を出す際の印文がこの類でした。いま梁は陛下に兄として仕えながら、なぜ外国扱いで我らを卑しめるのか」と述べた。高祖は使者を殺そうとしたが、格は「梁の担当役人の過ちです。両国の親交を絶つべきではありません」と諫めた。格はこれによっていっそう信任を得た。
  • ほどなく太子元膺の変が起こった。当時、後主は鄭王に封じられて最年少であったが、その母の順聖太后は賢妃として寵を得ており、ひそかに飛龍使の唐文扆に金百鎰を格に贈らせ、鄭王を皇太子に立てるよう請わせようとした。格は心を動かし、策で成し遂げられると考え、夜のうちに上表を作り、王宗侃ら功臣に示して「密旨を受けた」と偽った。一同は署名し、こうして後主が立てられた。
  • このとき文扆は宮中で権を握り、格は外朝でこれに与し、司徒毛文錫らと権勢を争って水火の仲であった。高祖は太子の変での喧噪の一件を聞いて格を憎んだが、事を起こす機を得ず、賢妃が内で後ろ盾となっていたため、ついに退けられなかった。
  • 後主が即位し、文扆が罪を得て死に、王宗弼が権を握ると、格は茂州刺史に貶された。楊玢・許寂・潘嶠らはみな格の一党として官を落とされた。ほどなく格はさらに維州司戸に貶され、以後その勢いは衰えた。
  • 乾徳六年(924年)にふたたび中書侍郎・同平章事となったが、在任中に見るべき事績はなかった。
  • 国が滅ぶと、唐の工部尚書任圜に従って洛陽に入った。葉彦の旧恩に感じて訪ねたが、彦はすでに没していたので、その家に手厚く恩恤を施した。
  • 格の弟の播は小字を興師といい、長水の難のとき鳳翔に逃れた。唐の昭宗は李儼の姓名を賜り、淮南への宣諭を命じた。これもまた異例の待遇であった。

許寂

  • 会稽の人。若くして四明山に隠棲し、晋徴君に易を学んだ。
  • 天復五年(905年)、趙匡明が蜀に亡命したとき、寂もこれに同行した。高祖はその名声を聞いて館に迎えた。
  • 開国にあたって左諫議大夫・判門下省とした。
  • 武成初(908年)、賢者を求めることを請う上書を奉った。その趣旨は、歴朝の君主はみな時に乗じて運を開くにあたり広く俊才を訪ね深謀を求め、武で禍乱を鎮め文で泰平を招いたこと、黄帝は六相を命じ虞舜は八元を挙げ、禹は善言を拝し、湯は一徳の師を得、周は多士によって文王が安んじられたこと、いま群臣のなかには国策を立てうる謀や賊を掃討しうる勇を持つ者、統治の要諦に通じ教化の源に精しい者がいながら、朝廷に抜擢されず下位に光を隠している者がある、どうか聖明の御考えを広げ人材登用の道を開き、みずから諮問して能力を見きわめ、しかるべき地位に置いて献言と匡正を尽くさせ、政に失策なく人に埋もれた才なからしめられたい、というものであった。高祖は喜んで受け入れた。
  • まもなく広成先生杜光庭の推薦により、徐簡夫とともに東宮に侍したが、元膺には礼遇されなかった。ほどなく吏部侍郎に抜擢された。
  • 光天年間(918年)、後主の即位に際して張格の一党として貶官された。久しくして礼部尚書に復し、乾徳六年(924年)に中書侍郎・同平章事を拝した。
  • このころ格が再び宰相となり、旧怨から中書の吏である王魯柔を杖殺した。寂は人に「張公は才は高いが見識が浅い。魯柔一人を殺せば、他の者は誰が身を保てようか。これは禍を招く発端だ」と語った。
  • 唐軍が国境に入ると、王鍇らとともに唐に降った。洛陽に着くと尚書のまま致仕し、庭園を修めて水を引いて谷川とし、太い竹を架けて浮橋とした。竹は龍に化すことができるとして「会龍橋」と名づけた。のち病没した。
  • 寂がはじめ四明山にいたころ、道服を着て山中を往来していた。ある日、夫婦連れが酒壺を提げて「今日剡県を出てきたので、たいそう疲れた」と言うのに出会った。寂が「道のりは遠い。一日でここまで来られるはずがない」と言うと、内心不思議に思った。まもなく男が拍板を取り出して高らかに歌い、次いで剣術を語りながら腕の間から二つの物を押し出し、広げて叱すると二口の剣となり、躍り上がって寂の頭上を旋回して打ち合った。寂は驚き恐れ、ほどなく男は剣を鞘に収めた。飲み終えて就寝したが、朝になると寝台は空であった。
  • 昼ごろ、頭陀(行脚僧)が来てその夫婦を訪ねた。寂が事の次第を語ると、頭陀は「私も同類の者だ。道士どのは学びたいか」と言った。寂が「若くから道教を尊んでおり、これを望みません」と辞すると、頭陀は傲然と笑い、寂の浄巾を取って足を拭き、そぞろ歩くうちに姿を消していた。
  • のちに華陽で再び会い、三人がいずれも剣侠であったと初めて知ったという。

王鍇

  • 字は鱣祥。出身地は原本で欠字。天復年間(901年〜)に使者として四川に赴き、そのまま蜀に留まって翰林学士となった。まもなく御史中丞に移り、武成二年(909年)に中書侍郎・同平章事を除された。
  • 永平元年(911年)、高祖が新宮を造り四部の書を中に集めると、鍇は文教を興すよう勧めて奏記を奉った。その趣旨は、歴代の帝王が学芸と典籍をいかに重んじてきたかを通観するもので、おおよそ次の通りである。
  • 伏羲が卦を演べ、神農が書を作り、堯・舜・禹・湯・文・武の功が天下に及んだからこそ、王統は久しく続いた。六国の諸侯が力で争い、秦が典籍を滅ぼして民を愚かにしたため、聖人の遺した書はことごとく失われた。
  • 漢は秦の弊を承け、蕭何は関に入ってまず図籍を収め、文帝は学校を修めて賢良を挙げ、景帝は倹約を身をもって行い博士や諸儒を選んで顧問に備えた。書物は未央宮に満ち、秘府にあふれた。班固が「周は成王・康王を称し、漢は文帝・景帝を称する」と言ったのはもっともである。
  • 武帝・宣帝の世には礼官に従って金馬・石渠の署を開いて典礼を議し、協律の官を置いて雅楽と俗楽を分けた。公卿大夫の著述が世に行われ、下情を伝えて諷諭を通じ、上の徳を宣べて忠孝を尽くした。成帝の世には奏上された篇が千余りに及び、その盛んなことは古来まれであった。
  • 後漢の世祖は喪乱ののちに立ち、暴を除き乱を誅して民を救い、寛容に人を用い明察に下を率いた。戦が収まると太学を起こして碩学を招き、群臣の奏議を史官に編ませて後世に伝え、しばしば公卿を招いて経義を論じ、夜半に及んでも苦としなかった。
  • 明帝は桓栄を師とし、みずから筆を執り朝に誦し夜に講じた。章帝は文儒を尊び太宗の遺風があり、白虎殿に諸儒を集めて経義を論じさせ、班固に編ませて『白虎通』と名づけた。
  • 魏の武帝は群書を博覧し特に兵法を好み、書史を抄録して『節要』と名づけ、孫子十三篇に注をつけ、詩文にも巧みで規範となった。文帝は八歳で文を綴り古今に通じ、帝位に即いても謙和を尚び、座して書を廃さず手から巻を離さなかった。
  • 晋の宣帝は博学多聞で儒教を奉じ、曹氏が衰えて大政を総攬してからも政務の合間に書を捨てなかった。景帝・文帝の間も儒術を尽くした。
  • 宋の高祖は豁達大度で典籍に親しみ、征討のさなかでも文墨を重んじた。文帝は経史を広く読み隷書に長け、諸子を戒めて廉潔倹約を旨とした。
  • 南斉の高帝は深沈で度量が大きく、清倹寛厚で学問と文章を好み、喜怒を表さなかった。常に「学んでこそ足らざるを知る」と言い、周公・孔子に徳を並べられる老成の人がいないことを恨んだ。草書・隷書に長じ、飛動の勢いがあった。
  • 梁の武帝は該博で文武の略があり、在位中は冬の夜も灯火を手に筆を執り、手はあかぎれた。諸子もみな文才があり、書を集めて読み、昼夜疲れを忘れた。元帝は易を好み韋編三たび絶え、東閣に十四万巻を集め、象牙の牌と玉の軸が廊下に輝いた。
  • 陳の武帝は雄傑で兵書を究め史籍を愛玩した。文帝は経典に意を留め、挙措は端正で雅であった。
  • 後魏の道武帝は台省を立てて儒学を興し、五経それぞれに博士を置き、講問は市のようににぎわい、学舎は林をなした。北斉には文林学館があった。北周の武帝の保定年間には書は万巻に満ちたが、斉を平定して得たものは五千巻に過ぎず、麟趾殿学士を置いて著述を掌らせた。
  • 隋は陳を平定したのち、牛弘が人を分けて珍本を捜索し、経史がしだいに備わって三万余巻に達した。煬帝は東都の観文殿の東西の廂に書を蔵し、正副各五十部を写して三等に分け、秘書省の分を除いて禁中にも置いた。
  • 唐の高祖は天下を統一し、暴虐な隋を除き、仁義を身をもって行って乱の階を絶った。太宗は英武の資質で、藩邸にあったころ房玄齢・杜如晦ら十八人を秦府の僚佐とし、儒術を重んじて経史を広く集め、即位後は才に応じて登用し、弘文館に学士を置いた。
  • 玄宗は開元五年(717年)、乾元殿に修書使を置き、張説ら学士を集仙殿の東廊で饗応して四部の書を写させ内庫に充てた。麗正殿を集賢と名づけ、修書使は集賢殿学士となった。以後、図籍は秘書省だけでなく弘文館・崇文館にも備わった。集賢が写したものは御書である。四部に分け、甲を経、乙を史、丙を子、丁を集とし、両京にそれぞれ一本ずつ、あわせて二万五千九百六十巻。経庫の書は白牙の軸に黄の帯と紅牙の籤、史庫は青牙の軸に縹の帯と青牙の籤、子庫は紫檀の軸に紫の帯と碧牙の籤、集庫は緑牙の軸に朱の帯と白牙の籤で区別し、大学士が専管した。
  • 歴代いずれもこれを受け継いだが、廃置や沿革には差異がある。ここではただ帝王の故事と秘書の職掌を略挙し、御覧に供したい。
  • 乾徳年間(919年〜)、鍇は庾伝素とともに宰相となった。このころ韓昭・潘在迎らが日ごとに後主を宴遊に導いて際限がなかったが、鍇らは匡正するところなく、ただ曖昧に従うばかりであった。
  • 後主が東巡し、閬州から川を下って帰る際、費用は莫大で、直言して諫める群臣が多かった。鍇は判六軍諸衛事の任にありながら後主の遊覧に従い、袖を払って職を辞することができなかった。
  • 唐軍が成都に入ると、李昊が降表を草した。上表と降伏の書は実際には鍇の手になるものであった。
  • 鍇は洛陽に着き、唐から某州(原本欠字)の刺史を授かった。諸臣とともに上表して後主の遺骸を蜀の山に葬ることを乞い、「生きては万乗の君であり、死しては匹夫の手に落ちた」と述べた。許されなかったが、人々はこれを称えた。
  • 鍇の家には珍本数千部が蔵され、多くは自ら装訂したものであった。また釈蔵経を何巻も自筆で写した。参内のたびに白藤の輿の中で書を写し、その書法はきわめて巧みであった。学を好んだ点は取るに足るものがある。

庾傳素

  • 高祖に仕え、無官から蜀州刺史となり、累進して左僕射兼中書侍郎・同平章事に至った。
  • 天漢元年(917年)、宦官唐文扆に讒言されて工部尚書に降ろされ、まもなく兵部に移った。
  • 後主の即位で太子少保を加えられ、ふたたび中書侍郎・同平章事を兼ねた。伝素は二度国政の要を握ったが目立った事績はない。国が滅ぶと唐に降り、刺史を授かった。
  • 伝素が蜀州を領していたとき、唐興県の郎吏に楊会という者があり、たいそう慎み深く仕えた。伝素が宰相となって長馬の職を授けて報いようとすると、会は固辞して「私の吏としての勤めは遠近に知られています。分不相応な官に就いて人の口をふさげましょうか。それに数千家の供応を捨てて虚名を得るだけで、長馬の職に益はありません」と述べた。当時の人はその見識を称えた。

史論

  • 張格は寵愛される幼い皇子の擁立に手を貸し、深く後宮と結んだ。大臣としては恥ずべき徳である。
  • 許寂は温和で儒者らしい素朴さがあり、王鍇は博学で文才があった。太平の世を飾るには適していたであろう。しかし社稷が傾いたとき救えなかった点では、罪は等しい。
  • 庾伝素は地位を保ちながら職を空しくし、一策も出せなかった。宰輔の補佐といえるだろうか。
  • ああ、宰相を選ぶことはどうして慎重でなくてよかろうか。

毛文錫

  • 字は平珪、高陽の人。唐の太僕卿毛亀範の子。
  • 十四歳で進士に及第し、のち成都に来て高祖に従い翰林学士となった。永平四年(914年)に礼部尚書・判枢密院事に移った。
  • これより先、峡上に堰があり、増水に乗じてこれを決壊させ江陵を水没させるよう勧める者があった。文錫は「高季昌が服さないだけで、その民に何の罪がありましょう。陛下はいま徳をもって天下を懐けようとしておられるのに、隣国の民を魚や鼈の餌にするのに忍びられますか」と諫め、高祖は取りやめた。
  • 通正元年(916年)に文思殿大学士に進み、さらに司徒を拝して判枢密院はそのままとした。
  • 天漢年間(917年)、宦官唐文扆が宰相張格と結んで文錫と権を争った。折しも文錫は娘を僕射庾伝素の子に嫁がせ、枢密院で親族を宴した際、音楽を用いながら事前に奏聞しなかった。高祖は鼓吹の音を聞いて怪しみ、文扆はここぞと欠点をあげつらった。文錫は茂州司馬に貶され、子の詢は維州に流され、家財は没収された。
  • 国が滅ぶと後主に従って唐に降ったが、まもなくふたたび孟氏に仕え、欧陽炯ら五人とともに小詞(詞曲)で後蜀主に賞された。
  • 著作に『前蜀紀事』二巻、『茶譜』一巻がある。とりわけ艶麗な語に巧みで、撰した「巫山一段雲」の詞は当時ひろく詠まれた。

毛文晏

  • 文錫の同母弟。文才があり詔勅の起草に巧みであった。
  • 天漢年間(917年)に翰林学士を歴任したが、兄文錫の一党として栄経尉に貶された。久しくして復して兵部侍郎まで進んだ。
  • 著作に『西園集』十巻、『昌城後寓集』十五巻があり、ほかに『咸通後麻制』一巻、『東璧出言』三巻を編んで世に行われた。

潘炕

  • 字は凝夢。先祖は河西の人。器量ある人柄で、家人も喜怒の色を見たことがなかった。
  • 高祖の時に累進して武泰節度使兼侍中を授かった。
  • 永平三年(913年)、弟の潘峭が内枢密使を罷めると、高祖は炕をこれに代えた。
  • まもなく太子元膺が唐道襲と清風楼の下で戦い、内外は動揺して大混乱となった。炕は高祖に「太子は道襲と権を争っているだけで、実は他意はありません。陛下がじきじきに諭されて社稷を安んずるべきです」と述べた。高祖はその通りにし、大乱はようやく収まった。
  • 元膺の死後、炕はしきりに東宮を立てて国本を定めるよう請うた。変事を防ぎ危機を慮ることは、おおむねこの類であった。
  • 後主が太子に立てられると、炕は病と称して引退を願い出た。国に大事があると、特に使者を遣わして意見を問われた。
  • 国が滅んで唐に入り、蜀州刺史となった。子の在迎は後主の遊興の相手であり、別に伝がある。
  • 炕には解愁という妾があり、際立った美貌で新曲をよくした。高祖はかつて炕の邸に来てこれを見、「朕の後宮にはこのような者がおらぬ」と言って自分のものにしたいという意を示した。炕はすかさず「これは臣下の卑しい者で、至尊のお目を汚すわけにはまいりません」と答えた。
  • 弟の峭が「緑珠の禍を戒めないのか」と言うと、炕は「人生は意にかなうのが尊い。死を惜しんで自分の心に不足を残せようか」と答えた。人々の多くはその節操に感服した。

潘峭

  • 炕の弟。高祖が帝位に即くと、峭を宣徽北院使とし、まもなく内枢密使に移した。
  • 永平二年(912年)、太子元膺が群臣を招いて宴を開いた際、峭は翰林学士毛文錫とともに時刻に遅れた。高祖は文錫と峭を追放するよう命じた。
  • 元膺の変が起こると、峭は内枢密使に復した。翌年、武泰節度使・同平章事を領した。久しくして病没した。

庾凝績

  • 庾伝素の再従弟。高祖に仕えて翰林学士承旨となり、天漢元年(917年)に吏部尚書・内枢密使を拝した。
  • この年、高祖の病が重くなり、内外の財賦、中書の人事、諸司の刑獄をすべて凝績に任せて主宰させた。
  • 後主の即位後、宰相張格が再び維州司戸に貶されると、もともと格と折り合いの悪かった凝績は、格を合水鎮に移すよう奏し、茂州刺史顧承郾に監視させた。承郾が命に従わないと、凝績は公事にかこつけて罪に落とした。わずかな怨みにも急に報いることは、このようであった。

楊玢

  • 出身地は原本で欠字。高祖の時に宰相張格に取り入り、累進して礼部尚書に至った。
  • 後主の即位後、格が茂州に貶されると、玢も一党として栄経尉に落とされた。乾徳年間(919年〜)にふたたび太常少卿となった。
  • 応聖節にあたり得賢門に山棚(飾りの山車)を並べたところ、暴風が吹いて崩れ落ちた。さらに翌日、雷が応聖堂を打って二本の柱を折った。
  • 玢は上言して「陛下の誕生の日に山が崩れたのは、欠けず崩れずという言祝ぎに背くものです。それが得賢門であったのは、陛下の登用する者が賢でないことを示します。応聖堂の柱が震えて折れたのは、陛下の柱石たる臣が材でないことを示します」と述べた。しかし後主はまったく意に介さず、ついに滅亡に至った。

史論

  • 二人の毛(文錫・文晏)は文采が輝かしく、著述も多かった。二人の潘(炕・峭)は実務に明るく大局をよくわきまえていた。まさに玉のごとき友、金のごとき兄弟というべきである。
  • 庾凝績は怨みに報いることを能とし、度量にいささか欠けるところがあった。
  • 楊玢は、はじめは徒党を組んだとして譏られたが、最後は直言によって過ちを補った。晩年に覆いを得たとでもいうべきであろうか。