晉暉
- 晉暉は許州の人で、若くして胆勇があり、家業に努めなかった。初め高祖とともに盗賊となり、ひそかに許昌の民家を襲ったが、事が露見して夜に逃げ、武陽の古墓に身を潜めた。墓の中から人が「潁州で無遮会(施しの法会)が催されるそうだ、一緒に行かないか」と呼びかける声が聞こえ、墓の中から「蜀王がここにおられるので、お供できない」と答える声がした。二人は内心ひそかに喜び、「いったい誰が蜀王だというのか」と言い合った。まもなく、ある者が高祖の前に飯を献じて「これこそ御飯です」と言うと、高祖はますます喜んだ。晉暉は高祖を幼名で「行哥」と呼び、その姿かたちが常人と異なり、必ず非凡な事業を成すに違いないと思い、これより心を傾けて彼に仕えた。
- 唐の僖宗が蜀に行幸すると、晉暉は高祖および韓建・張造・李師泰らとともにそれぞれ一都を率いて行在に馳せ参じた。僖宗は大いに喜び、「随駕五都」と号した。まもなく長安に還ると、晉暉と高祖を神策軍使とし、神策軍を率いて宿衛させた。光啓二年、僖宗がふたたび興元に行幸したとき、高祖は長剣を帯びた五百の兵を前駆とし、奮い戦って玉璽を負って進んだが、晉暉もまたともに西へ向かい、同じく清道斬斫使となった。まもなく観軍容使の楊復恭が田令孜の一党を排斥し、晉暉は集州刺史として外に出された。高祖が即位すると、晉暉は功を積んで弘農郡王に封ぜられた。高祖は常に彼と酒を酌み交わして大いに歓を尽くし、腕を組んで昔語りをした。晉暉が「武陽の墓の中の言葉は、果たして偽りではありませんでした」と頓首して言うと、高祖は笑って「初めはそこまで考えが及ばなかった」と言った。通正元年に卒すると、高祖は自ら弔問に臨み、恩礼を加えた。