周庠
- 周庠は、もと唐の龍州司倉であった。高祖が利州刺史であったとき、庠は食客としてこれに従った。当時、楊守亮が山南西道を鎮しており、たびたび高祖を召したが、高祖は恐れて赴かず、庠に相談した。庠は言った。「唐の命運はまさに尽きようとしており、藩鎮は互いに呑み合っております。公は勇にして謀があり、士卒の心を得ておられます。大功を立てる者は公をおいて誰がありましょうか。しかし葭萌は四方から攻められる地で、久しく安んずるのは困難です。閬州は地が僻遠で人が富み、楊茂実は陳敬瑄の腹心でありながら職貢を修めておりません。もしその罪を上表し、兵を興して討てば、一戦で捕らえることができましょう。」高祖はその言葉に従い、ついに茂実を逐ってこれを占拠し、守亮も抑えることができなかった。
- ほどなく高祖は陳敬瑄と互いに攻め合ったが、成都はなお強勢で退いても掠め取るものがなく、兵を罷めようとした。庠は不可なりとし、さらに言った。「卭州は城壁と濠が完備し、食糧も数年分あります。ここに拠って根本とするに足ります。」高祖はそこで庠に上表文を起草させ、敬瑄討伐によって罪を贖うことを願い出、あわせて卭州を求め、許可を得た。ほどなく、唐の僖宗は韋昭度に敬瑄討伐を命じたが、三年たっても勝てず、朝議では兵を息めるのがよいとされた。高祖は兵を罷めよとの詔書を見て、「大功はもう少しで成るのに、なぜこれを棄てるのか」と言った。庠はそこで高祖に韋昭度を朝廷に還らせるよう勧め、成都だけを取ってこれを領有すれば両川は平定されたも同然だと説いた。これにより昭度は東に還り、高祖は両川をことごとく手中にすることができた。庠の謀るところが多かったのである。
- 官を重ねて御史中丞に至り、武成三年、中書侍郎同平章事を拝した。後主が即位すると、内給事の王廷紹らが権勢をふるったので、庠は厳しく諫めたが聞き入れられず、まもなく司徒同平章事に進み、武平軍節度使を領したが、いくばくもなく病没した。子の仁矩は駙馬都尉となったが、いくらか文才はあるものの、とりわけ凡庸で劣っていた。国が亡んだのち、貧しい乞食の仲間に加わり、一人に先だって市場で自らの家柄・爵位を触れて歩かせた。これを哀れむ者があり、「銭数百を得て、みなで一緒に飲み食いして楽しむ」と言い、成都の人はみなこれを嘆いた。