十国春秋卷三十九 前蜀五 列傳 王承檢

王承檢

  • 王承検は髙祖に事えて姓名を賜り、諸孫と等しく列した。乾徳の時、官は秦州節度使であり、防蕃城を築いて上邽山下に至ったとき、瓦棺を得たが、中に屍はなくただ舌一片があった。肉色は紅潤で堅きこと鉄石のようであった。また髑髏(されこうべ)一つがあり、中に古銭一枚を蔵し、二匹の蠅が振るって飛び去った。下から石刻の篆字を得て「大隋開皇二年、渭州刺史張崇の妻、夫人王氏、年二十五にして崇に嫁ぎ、三年にして娠(みごも)ったが、その妊娠を悪んでついに卒す」とあった。銘にいう「車道の北、邽山の陽、深深として玉を送り、鬱鬱として香を埋む。斯の貞石を刻み、乎(ああ)遺芳を煥(あきら)かにす。地は陵谷に変じ、嶮として城隍を列す」。乾徳丙年、壊す者は郎に合すと。この年は乾徳六年丙子歳に当たり、合郎とは承検の小字である。

史論

  • 論じて言う。唐末、中官(宦官)が兵を典(つかさど)ると、常に壮士を養って子とし自衛させたが、諸将は往々にしてこれに倣った。沙陀氏に至っては義児軍を設けるほどで盛んであった。史に言う、髙祖の仮子は凡そ百二十人、みな功臣であり、姓を冒し名を連ねたが婚姻を禁じなかった。今その名の顕著な者を録すれば、宗信以下四十一人が篇に著された。それ以外はもとより概ね見ることはできない。