王宗綰
- 王宗綰はもと姓を李、名を綰といい、乾寧元年、王釗らとともに髙祖の義児となり、今の姓名を賜った。累って蜀州を知るに至った。髙祖が東川を破ると、宗綰に兵を分けて昌・普等の州を巡らせるよう命じ、まもなく武定軍節度使を領した。たまたま司馬卿が来て唐昭宗の喪を告げると、髙祖は宗綰に大義をもって責め弑逆の由を詰問させ、辞気は激烈で、卿はついにあえて境に入らなかった。事は髙祖紀中に具わっている。永平の時、髙祖は岐と兵を構え、宗綰は馬歩都指揮使に充てられ、あらかじめ西県に城を築いて安遠軍とした。利州の一面は多くこれに恃って捍蔽(守り)とした。まもなく詔して兼中書令とし、また北面行営都制置使に充てられ秦州を攻めた。まもなく岐の兵を金沙谷で破り、岐の将李彦巣を捕え、また成州を克ち刺史李彦徳を虜にし、隨って秦州を陥し鳳州を抜いた。髙祖はこれによって秦・鳳・階・成の地を有した。宗綰はまことに首功であった。通正元年、また東北面都招討を領し兵を率いて岐を伐ち、師は大散関から出て岐の兵を大いに破り、進んで宝鶏を取り鳳翔を囲み、岐人はこれがために震恐した。光天の時、王宗瑶らとともに顧命を受けて政を輔け、後主が即位すると臨洮王に封じられた。宗綰は人となり寛厚謹慎で、功が高くても矜(おご)らなかった。常に密かに「許存(王宗播)は忠勇で他志がない」と言い、存が死を免れることができたにもかかわらず、ついに存にその免れたことを知らせなかった。その生平の行事は多くこの類であった。