十国春秋卷三十九 前蜀五 列傳 王宗滌

王宗滌

  • 王宗滌はもと姓を華氏、名を洪といい、潁川の人である。髙祖に従って威信都指揮使となり、李簡らとともに梓州で楊守厚を拒み、功は最も多かった。また彭州を攻めて楊晟の軍を破り、閬州で楊守亮を撃ち先登して陣を陥した。まもなく顧彦暉を楸林で破り、卭州刺史に遷り、また兵を率いて東川を攻めた。髙祖はその功を嘉して姓名を王宗滌と改め、諸子とともに列した。まもなく東川留後に任じられた。翌年、宗滌は「東川の封疆は五千里、文書の往還はしばしば時日を淹(とど)めます。遂・合・瀘・渝・昌の五州を分けて別に一鎮とすることを請います」と言い、髙祖はその説を朝廷に表した。後にこれによってついに武信軍を遂州に置いた。宗滌の力である。数か月して、唐は宗滌を東川節度使に授け、しばらくして同平章事を加えた。まもなく李継密を興元で破った。唐はただちに詔して山南東道節度使とした。
  • 宗滌は勇略があり将士の心を得たが、髙祖は頗る内心これを忌んだ。たまたま成都で府門を朱丹で塗る工事が起こり、国人はこれを「画紅楼」と呼んだが、髙祖は宗滌の姓名がこれに応じるとみなし、しかも王宗佶がその功を疾(ねた)んでまた飛語(讒言)を構えたので、髙祖は宗滌を召してこれを詰責した。宗滌は「三蜀はほぼ平定されました。大王が讒言を聴いて功臣を殺すというなら、そうなさるがよろしいでしょう」と言った。髙祖は親随指揮使唐道襲に酒を飲ませて縊り殺させた。成都の人々はこれがために市を罷め、親戚を喪ったかのように涕泣した。武成元年、髙祖が即位すると境内に大赦して詔していう。「故山南節度使王宗滌は早くより寵任を膺(う)け、しばしば勲勤を著わし、征行は風塵を憚らず、敵に陳(むか)えば常に士卒に先んじた。その実効を論じれば労臣と称すべきである。しかるに図らずも富貴によって驕りを生み、災殃は自ら招いたこととはいえ、初終の節を守らず、にわかに悖慢の心を蒙ることとなった。人情を験するに共に憤懣とし、国法を定めるに私に断ずることは難しく、ついに典憲(法規)を行い、深く矜傷(あわれみ悲しむこと)とするところとなった。まさに景運の初興に当たり、故臣を思うべきときにあり、よろしく洗雪(雪冤)を加え、幽冥を慰めるべきである」。そこで宗滌が生前有していた官爵はことごとく元通りに戻された。