十国春秋卷三十九 前蜀五 列傳 王宗侃

王宗侃

  • 王宗侃はもと姓を田氏といい、雅州の人で、髙祖の仮子(養子)である。髙祖が西川に入ったとき、宗侃は従ってともに西上し、先登(先陣)を務めた。まもなく梓州を救い、楊守厚の七砦を破り、表されて雅州刺史に遷った。彭州を攻めるに及び、軍士王先成の言を用いて七事を布告した。数年して利州を攻め抜き、刺史李継顒を捕えて斬った。まもなく決雲都知兵馬使に充てられ、まもなく応援関陝都指揮使を領し、渝州を取ってその刺史牟崇厚を降した。まもなくまた龍台鎮使に転じ、兵を会わせて杜従法を討ち功があった。天復七年、太保兼侍中に進み、武成の初め、兼中書令を拝した。永平元年、髙祖は岐と交悪し、宗侃は行間(前線)に力を効すことを請い、ただちに北路行営都統に命じられた。この役は歩騎十二万人、旌旗は数百里に連なった。青泥嶺の戦いに及び、侃の兵は大敗し、退いて安遠軍を保った。髙祖はこれを召して責めて「お前はまた狂率(軽率で無謀)であったのか。赫雷を畏れないのか」と言った。赫雷とは髙祖の刀の名である。宗侃は懼れ、ついに功なくして還った。後主が継立すると、樂安王に封じられ、尚父を加えられ、まもなく魏王に進封され、卒した。

承肇

  • 承肇は宗侃の第三子である。雅州で生まれ、小字を獦獠児といった。初め宗侃の妻の崔氏(張氏、あるいは宗侃の前妻の誤りか)は一人が峩冠褒袖(高い冠と大きな袖の衣)で自ら周公山神と称し、五色の獣を牽いてその衣に迫るのを夢に見て、そのまま身ごもった。承肇が数歳になったとき、異人の崔和尚という者がおり、承肇を見てその背を撫でて「老僧が住まう周公山の佳気が半減した。おそらくここに霊を孕んだのであろう。この子は麒麟の精であり、必ずや王者の瑞となるであろう」と言った。承肇は頗る兵法に通じ、後に累って武定節度使に至り太尉を加えられた。国が亡ぶと唐に降り行軍司馬となった。