十国春秋卷三十八 前蜀四 列傳 宗壽
要約
宗壽は字を永年といい、王氏一族の出(一説には許州の民家の子)で、高祖が同族として認め養子とした。琴や囲碁に巧みで、欲がなく引っ込み思案な人柄で道家の術を愛した。武成中に嘉王に封じられて鎮江節度使を歴任し、後主の代には太子太保・奉朝請として丹を練り気を養うことを楽しみとした。後主の淫乱を見て重陽の宴の折、社稷が危うくなることを涙ながらに極言して諫めたが、佞臣潘在迎・韓昭らはこれを「嘉王は昔から酒で悲しむ癖がある」とあざけり、後主も改めることはなかった。武信軍節度使に転じたのち唐(後唐)の侵攻を受け、初めは抗戦したが遂に遂・合・渝・瀘・昌の五州をもって帰順し、後主が璧を銜えて慟哭したと聞いて悲しみ、東遷する後主を追って賄賂で守りの者に取り入って見え、「早く王の言葉に従っていればこのようなことにはならなかった」と後主から涙ながらの後悔の言葉を受けた。後主没後、後唐荘宗が弑されたと聞いて熊耳山に亡命し、明宗の天成二年、洛陽に上書して王氏一族十八名の遺骸を求め、自ら歩いて葬送に従いこれを手厚く葬った。文才にも富み能仁院の僧と多くの文書を交わし、江原で不思議な古鏡を得た逸話も伝わり、後に辟穀の術を修めて長寿を全うして没した。
現代語訳全文
宗壽
- 宗壽は字を永年、王氏の一族の人である(一に許州の民家の子ともいう)。髙祖は同姓であることをもってこれを子として録した。宗壽は琴・奕(囲碁)を工み、人となりは恬退(欲がなく引っ込み思案)で、道家の術を好んだ。武成中、爵を嘉王に賜り、まもなく鎮江節度使を領した。後主が継立するに及び、太子太保に進み奉朝請となり、丹を練り気を養うことをもって自ら楽しんだ。後主が淫乱に及ぶたびに宗壽は独りこれを切諫した。常に九日(重陽)に宣華苑で酒に侍したとき、隙に乗じて社稷がまさに危うくなることを極言し涙を流してやまなかった。潘在迎・韓昭らは「嘉王は昔から酒で悲しむ癖がある」と言い、諸々の狎客とともに謾言をもってこれを謔嘲した。後主も省みることができず、また宮人の李氏に自ら撰した新詞を歌わせ宗壽の酒を侑めさせたが、宗壽は一飲して尽くした。禍を懼れたのである。在迎は宮人を宗壽に賜うことを請うたが、後主は「王は必ず納れないだろう。多く溷(わずら)わせるな」と言い、ついに止めた。
- まもなく武信軍節度使に改められた。唐の軍が侵攻すると、至るところで迎え降ったが、宗壽は初め肯んじて降らなかった。まもなく遂・合・渝・瀘・昌の五州をもって款を送った。降ってからは後主が璧を銜えて大いに慟哭したことを聞き、後主の東遷に従い岐陽に至ると、賄賂で守る者に取り入って後主に見えることができた。後主は泣いて衿を霑(ぬら)し「早く王の言葉に従っていれば、どうして今日のようなことがあったろうか」と言った。後主が死ぬと、宗壽は澠池に至り、唐荘宗が弑されたと聞いて熊耳山に亡命した。明宗の天成二年、洛に詣でて上書し後主の宗族を葬ることを求めた。明宗はその忠をもって、宗壽を保義軍行軍司馬に署し、追って後主を公に封じ諸侯の礼で葬ることを許した。宗壽は王氏十八の喪をことごとく得てこれを葬った。葬送の日、宗壽は歩いてこれに従った。まもなく淄州刺史となり、また平盧節度使となり、寿を全うして終えた。
- 宗壽は頗る文をよくし、常に能仁院の僧と文書を交わすこと二十余帙、墨跡は多く冲妙観に貯えられた。また宗壽はかつて江原で古い鉄鑑(鏡)を得たが、その下に篆文十二字あり「竜宮宝蔵、神和子鋳、永年万歳」とあった。平時には晦(くら)くて見えなかったが、ある日たちまち光彩が照り輝いて市舎に見えた。一人の青衣の小児が丱角(あげまき、子供の髪型)を結い酒家の楼に蹲(うずくま)っていたので、急いで人を遣わしてこれを訪ねさせると、小児はついて来て「これは神物です。私はこれを失ってすでに百年、あなたは返してくださるべきです」と言い、腹を割いて鏡を納め、長揖して去った。人々はみなこれを鏡の妖であると思った。後に宗壽は辟穀(穀断ち)して寿を延ばす法をよくしたが、あるいはこれをその青衣から得たのだという。