十国春秋卷三十八 前蜀四 列傳 順聖皇太后徐氏

要約

順聖皇太后徐氏は唐の眉州刺史徐耕の娘である。父の耕は仁恕な人柄で、田令孜・陳敬瑄が成都を守っていた頃、多くの人命を救っていたが、令孜に叱責され、やむなく夜に俘囚数人を斬って復命したこともあった。人相見が耕に「まもなく大いに富貴になる、二人の娘によってその富貴がもたらされる」と告げ、姉が高祖の賢妃となり、妹は淑妃となった。二人はともに色をもって寵を専らにし、宦官唐文扆らと結んで外政に関与した。太子元膺の死後、高祖が雅王宗輅や信王宗傑を候補としたのに対し、賢妃は自らの子である鄭王(後主)の擁立を図り、文扆を通じて宰相張格に働きかけて後主を即位させることに成功した。即位後は順聖皇太后と尊ばれ、妹は翊聖皇太妃となり、実父の徐耕も驃騎大将軍に至った。太后・太妃はそれぞれ教令を出して刺史以下の官を売り、多額を出す者がこれを得た。日ごと後主を伴って貴臣の邸や丈人観・金華宮・三学山などの名勝を遊覧して莫大な費用を浪費し、これが蜀滅亡の一因となった。唐(後唐)の軍が漢州に入ると後主は太后を唐の臣李厳に託して帰順したが、荘宗はまもなく向延嗣を遣わして王氏一族を秦川駅で皆殺しにした。太后は刑に臨み、「わが子は一国を挙げて迎え降ったのに、かえって殺される。信義はともに棄てられた」と叫んで刑死した。

現代語訳全文

順聖皇太后徐氏

  • 順聖皇太后徐氏は唐の眉州刺史徐耕の娘である。耕は性仁恕で、田令孜・陳敬瑄が成都を守っていたころ、耕は内外都指揮使としてよく人命を救い、常に数千人に及んだ。令孜はこれに「公は生殺を掌りながら一人も刑さないのか。異志があるのか」と言ったので、耕はやむを得ず夜に俘囚数人を戮してこれに復命した。耕には二人の娘がありともに国色(絶世の美女)で、相工(人相見)が耕に語って「公はまもなく大いに富貴になります」と言ったので、二人の娘を出してこれを見させた。相工は「青城山の王気は天に徹しています。十年を経ずして真人がこの運を承けるでしょう。この娘たちはまさに后妃となるはずです。あなたの富貴もこの二人の娘によってもたらされるでしょう」と言った。長女がすなわち太后である(『鑑戒録』には「長女を太妃、次女を太后とする」とあるが、これは誤りである)。
  • 太后は髙祖に事えて賢妃となり、妹の淑妃とともに色をもって寵を専らにし房を用いて事をなし、宦官の唐文扆らと結んで外政に干与した。太子元膺が死ぬと、髙祖は雅王宗輅がおのれに似ていること、信王宗傑が才敏であることから一人を択んで立てようとしたが、賢妃はその子である鄭王(すなわち後主である)を立てようとし、文扆に宰相張格に諷(ほのめか)してこれに賛成させた。後主はこうして立つことができた。皇帝の位を嗣ぐに及び、賢妃を尊んで順聖皇太后とし、淑妃を翊聖皇太妃とした。耕もまた累って驃騎大将軍に至った。太后・太妃はそれぞれ教令を出して官を売り、刺史以下、一官が欠けるごとに必ず数人が争って銭を入れ、多い者がこれを得た。また日ごとに後主を挟んで貴臣の家に遊宴し、あるいは近郡の名勝、丈人観・金華宮・三学山などの地を巡覧し、飲酒賦詩し、費やすところは計り知れなかった。常に青城山に遊び、宮人の服はみな雲霞を画き、飄然として望めば仙のようであった。後主は自ら甘州曲を作ってその様を述べた。ついにこれによって国は敗れた。
  • 唐の軍が漢州に入ると、後主は駅馬を馳せて唐の臣李厳を召し、太后を引見させ、母を託した。まもなく唐に帰属すると、唐荘宗は向延嗣を遣わして王氏を秦川駅で族誅した。太后は刑に臨んで叫んで「わが子は一国をもって迎え降ったのに、かえって戮せられる。信義はともに棄てられた。私はお前たちの禍がすぐに巡ってくることを知っている」と言った。