波を凌いで濶歩した詩人
- 許堅はその家系を失っている。あるいは晋の長史穆の子孫であるという。姿は異様で醜く、穆は雲泉寺を往来していた。その居所の地は重なる峰と高い木々があり、人々は小蔣山と呼んだ。堅は詩を作ることを好み、夢の中でも多く詩句を吟詠した。朝になれば一つの布袋を背負って廬阜・白鹿洞・茅山・九華の間を遊歴した。性は魚を好み、いつもこれを火に炙って鱗を取らずに食べた。いつも巾帯を身につけたまま溪澗の中に入って浴し、出てから干した。ある人がその理由を問うと、堅は「天象は昭らかに広がり、昼日にもまた常に列に加わっている。どうして裸になれようか」と言った。堅には異術があった。太虚観には池があり、堅が炙った魚をこの池の中に放つと、しばらくして生き返って魚となり泳ぎ去った。
- 保大年間、異人として召されたが、堅はその名を恥じて応じなかった。常に幽栖観に題して「仙翁は上昇して去り、丹井は晴れた谷に寄せる。山色は天台に接し、湖光は寥廓を照らす。玉洞は絶えて人無く、老いた檜はなお鶴を棲まわせる。我は青蛇を掣(ひ)いて、他時に碧落(青空)を衝きたい」と詠んだ。
- 数年居してから陽羡に至ると、人々は彼を知らなかった。ある日、西津を渡ったとき、波を凌いで大股で歩くさまはまるで平地のようであったので、衆人は彼を神のように思わない者はなかった。もとより樊若水と親しかったが、若水が北に渡って(宋に降って)後、江南に転戦してきたとき、簡寂観で堅に出会い、仕官することを勧めたが、堅は黙って答えず、その後どこに行ったか分からなくなった。