十国春秋卷三十三 南唐十九 列傳 小長老

要約

小長老は淮北出身と称する僧で、実は江南の江氏の子で宋に通じた内応者であったとする異説も伝わる。仏典の六根・四諦の説を朝夕説いて後主に深く信頼され「一仏の出世」と呼ばれるほどであったが、紅羅銷金の衣をまとう豪奢を咎められても仏の富貴を説いて開き直り、梵刹の造営や大規模な施食「折倒」を後主に勧めるなど、識者からは南唐衰亡の予兆と見なされた。

金陵包囲の際には仏力で危機を防ぐと豪語して城壁に登り大声で祈祷を演じ、後主も僧俗の軍士に念仏を唱えさせたが、いざ矢石が降り注ぐと病と称して指揮を避け、後主はここに至って初めてその欺瞞を疑い鴆毒を盛って殺した。

また金陵陥落の直前、後主と「不測の事態あれば宮中で火を挙げて共に焼死する」と約束していた浄徳尼院の宮人出身の尼八十余人は、宮中の焼却の煙を合図に積んだ薪へ火を放ち、誰一人逃れることなく共に焼死した。後主自身も周后とともに仏教に深く傾倒し、僧の風紀の乱れや、斎日の灯明の消長で死刑の可否を決める「命灯」による恣意的な減刑がまかり通ったことなど、仏教信仰が政治を大きく歪めた実態も記される。

現代語訳全文

金陵陥落を仕組んだ疑いの僧

  • 小長老は淮北の僧である。あるいは即ち江南の江氏の子であるという。自ら化を慕って遠くから来たと称し、朝夕、六根・四諦の説を論じたので、後主は大いに喜んで「一仏の出世」と呼んだ。身には紅羅銷金の衣をまとった。後主がその奢りの甚だしさを咎めると、答えて「陛下は華厳経をお読みにならないのですか。それでどうして仏の富貴を知りましょうか」と言った。そこで後主に梵刹を広く施すよう説き、また牛頭山に大いに蘭若(寺院)を建てるよう請い、広く僧徒を集めて日ごとに斎の食事を設けさせた。食べきれない食事があれば、翌日また用意させ、これを「折倒」と称した。識者は「折倒とは敗徴である」と言った。
  • 金陵が包囲されると、後主は小長老を召して禍福を問うと、「臣は仏力をもってこれを防ぎます」と答え、そのまま城に登って大声で四方に叫んだ。後主は僧俗の軍士に救苦菩薩を念じさせ、城中が沸き返るほどになったが、まもなく四方から矢石が交わり降り注いだ。再び小長老を召してこれを指揮させようとしたが、病と称して起きなかった。ここに至って初めてその欺瞞を疑い、鴆毒を盛って殺した。
  • これより先、浄徳尼院には合わせて八十余人がおり、みな宮人で出家した者であった。都城が陥落しようとするとき、院の庭にも薪を積んでいた。後主はこれと約束して「もし不測の事態があれば、宮中で火を挙げて合図とする。私とお前たちは共に焼け死のう」と言った。保儀の黄氏が宮中に積んだ書物を燃やしたとき、浄徳院から遥かにその煙焔を見て、そのまま積んだ薪を燃やして火に赴き死んだが、一人として逃れようとする者はなかった。当時、城中には僧千人がおり、しばしば表を上げて堅きを披り鋭きを執って国難に死なんことを乞うたが、後主は許さなかった。
  • 初め、後主は周后とともに甚だしく仏法を信じ、僧帽・裓衣(僧の袈裟)を身につけて釈典を読誦し、みずから僧徒を削って便所を掃除させ、頬を試して少しでも芒刺(ひげ)があれば剃らせて整えさせ、両手は常に仏印を結んだまま行動した。道士で僧になろうとする者を募っては銀二金を与え、僧で姦通の罪を犯した者には仏を礼拝すること百拝させてすぐに釈放した。これによって姦濫が公然と行われ、禁ずるところがなくなった。諸郡が死刑を断ずるには必ず先んじて奏牘(上奏文)しなければならなかったが、たまたま斎日に当たれば、宮内で仏灯を燃やし続けて夜明けまで達するのを験とし、これを「命灯」と称した。火が消えれば法に依って処刑し、消えなければ死刑を免れさせた。富商大賈で法を犯した者は、しばしば左右の者に厚く賄賂を贈って灯を継がせ、免れる者が非常に多かった。