曹翰の軍を動じさせぬ座禅
- 僧縁徳は臨安の人、俗姓は黄氏である。若くして東山の勤公に仕えて剃髪し沙門となった。その後、襄州の清谿に至って修道し、久しくして洪州の上藍精舍に住した。たまたま宋斉邱が来訪すると、衆僧はみな趨って出迎えたが、縁徳は経を閲すること平生のごとくであった。斉邱は傍らに立ってこれを睨んだが、縁徳はあまり顧みなかった。斉邱が「上座は何の経を見ておられるのか」と問うと、縁徳はこれを挙げて示したので、斉邱はこれを異とした。その後歴請されて舎利・幽谷・双嶺の諸刹に住した。縁徳は去留のいずれにあっても頽然として黙坐し、学徒はおのずと規矩を成した。平生一枚の衲裙(僧衣の裙)を著て、その襞の所を縄で貫き、夜はその裙を延ばして衾(掛け布団)とした。後主はその名を聞いて禁中に召し入れ、仏法の大意を問い、廬山に寺を建てるよう勅した。
- 宋の軍が南侵したとき、胡則が江州を守っていたが、宋の将である曹翰の部曲が江を渡って寺に入ると、僧はみな驚いて逃げたが、縁徳は正座して平生のままであった。翰が至っても立たず、揖もしなかった。翰は怒って叱り「長老は殺人を目を瞬きもせずに行う将軍のことを聞いたことがないのか」と言った。縁徳はじっと見つめて「あなたは死生を懼れぬ和尚がいることを知らないのか」と言った。翰は大いにこれを珍しがり、「禅者はどうすれば集まるのか」と問うと、縁徳は「鼓を撃てばおのずと集まります」と言った。翰が裨校(副将)に命じてこれを撃たせたが、僧で来る者がいなかった。翰が「来ないのはなぜか」と言うと、縁徳は「あなたには殺意があるからです」と言い、自ら起きてこれを撃つと、僧たちがみな集まった。翰は再拝して勝ちを決する策を問うたが、縁徳は「禅者の知るところではありません」と答えた。
- 太平興国二年十月七日、堂に登って「世縁を脱離するのはまさに今日である」と言い、門人に命じて青石を積んで塔を作らせ、「いつか塔が紅色になったら、私が再び来たのだ」と言った。言い終わると逝った。道済禅師と諡された。