十国春秋十國春秋卷三十三 南唐十九 休復・無殷・縁徳・木平和尚ほか南唐の高僧たち
僧休復
- 休復、北海の王氏の子。幼くして出家し、十九で受戒した。烈祖が清涼道場を創建して住まわせた。
- 保大元年(943年)十月一日、元宗に書を送って別れを告げ、三日の夜の子の刻に入滅すると告げた。元宗は本院にその時刻に鐘を撞かせた。時が来て人々が集まると、休復は端坐して衆を戒め「光陰を無駄にするな」と言い、語り終えて逝った。
- そのとき元宗は鐘の音を聞いて高台に登り、遥かに礼拝して深く哀惜した。舎利を収めて塔を建てた。
僧無殷
- 無殷、福州の人。俗姓は呉氏。七歳で雪峰のもとで出家し、のち吉州の禾山に赴くと学徒が雲のように集まった。
- 元宗が召して「師はどこから来られたか」と問うと、無殷は「禾山から参りました」と答えた。「山はどこにあるか」と問うと、「人は来たりて鳳闕に朝すれども、山岳はかつて移らず」と答えた。元宗はこれを重んじ、詔して東都の祥光院に住まわせた。
- のち山に入ることを願い、翠巌に住んだ。建隆元年(960年)に没し、法性禅師と諡された。
僧縁徳
- 縁徳、臨安の人。俗姓は黄氏。若くして東山の勤公に師事し剃髪して沙門となった。のち襄州の清渓で修道し、久しくして洪州の上藍精舎に住んだ。
- 宋斉丘が来たとき、僧たちはこぞって出迎えたが、縁徳は平然と経を読んでいた。斉丘が傍らに立って横目で見ても縁徳はろくに顧みなかった。斉丘が「上座は何の経を読んでおられるか」と問うと、縁徳は掲げて示した。斉丘は非凡と認めた。
- 舎利・幽谷・双嶺などの寺に住むよう請われたが、縁徳は去るも留まるも行く先々でぐったりと黙して座るばかりだった。それでいて学徒は自然に規律を保った。
- 平生、一枚の衲の裙を着て、その襞に縄を通し、夜はその裙を広げて夜具とした。
- 後主はその名を聞いて禁中に召し、仏法の大意を問い、勅して廬山に寺を建てさせた。
- 宋軍が南侵し、胡則が江州に拠って守ったとき、宋将の曹翰の部隊が江を渡って寺に入り、僧はみな驚いて逃げたが、縁徳は平時と変わらず端坐していた。翰が来ても立たず、会釈もしなかった。翰は怒って「長老は、人を殺しても眉一つ動かさぬ将軍がいることを知らぬのか」と怒鳴った。縁徳はじっと見て「あなたこそ、生死を恐れぬ和尚がいることを知らぬのか」と言った。
- 翰は大いに非凡と認め、「禅僧たちはなぜ散ったのか」と問うた。縁徳が「鼓を撃てば自ずと集まります」と言うので、翰は副将に撃たせたが、来る僧はいなかった。「来ないのはなぜか」と問うと、縁徳は「公に殺意があるからです」と言い、自ら立って撃った。すると僧たちはみな集まった。翰は再拝して必勝の策を問うたが、「禅僧の知るところではありません」と答えた。
- 太平興国二年(977年)十月七日、堂に登って「世縁を脱するのは今日である」と言い、門人に青石を積んで塔を作らせ、「いつか塔が紅色になったら、私が再び来たときだ」と言い、言い終えて逝った。道済禅師と諡された。
木平和尚
- 木平和尚は保大年間に金陵に来た。人の禍福生死を知り、言うところは多く的中した。
- 元宗が百尺楼で召見したとき、木平は楼を指して「ここは火を望むのによろしい」と言った。初めは意味が分からなかったが、淮甸で戦が起こると、竜安山に烽火台を置いて江北に応じ、しばしばこの楼に登って動静を見たので、その言葉は的中した。
- また慶王がまだ幼かったころ、元宗が寿命を問うと、木平は「若君は聡明叡智で、九十年先のことまで予知されます」と言い、「九十乙」の字を書いて与えた。のち慶王は薨じたが享年十九だった。「九十」と書いてその後に「乙」の字を続けたのは、九十を乙(返り点のように上下を入れ替える印)にして「十九」とせよという意味だったのである。
- 一説に、木平が元宗に会ったとき、木の瓶を杖の先に掛けており、ふと瓶を引き寄せて自分の姿を隠すと元宗には見えなくなった。のち宮のかたわらに寺を建てさせ、「木瓶寺」と名づけたという。
僧応之
- 応之は本姓は王。先祖は閩の人。文章をよくし、柳公権の筆法を習い、書のうまさで江左第一だった。
- はじめ進士に応じたが有司に落とされ、答案を投げつけて「私はつまらぬ章句で凡人に品定めされるようなことはできぬ」と罵り、髪を剃って仏門に入った。
- 保大年間、紫衣を賜り、『楞厳経』を書写するよう命じられた。完成して奉ると、元宗は「これは柳公権の法をよく体得している」と言った。応之の書名はこれによっていっそう高まった。
- 右街僧録に遷ったが固辞し、奉先禅院に住むことを求めて許された。
- 応之は著述が多く、とりわけ音律を好んだ。かつて讃礼の文を楽譜に載せ、その声はやや低く終わりは梵音に帰した。讃念を音律に合わせるのは応之から始まった。
僧文益
- 文益、余杭の魯氏の子。七歳で睦州の僧・全偉のもとで落髪した。のち儒学の典籍にも広く通じ、また明州の希覚のもとに赴いて仏書の講義を聴いた。希覚は「我が門の子游・子夏だ」と言った。
- 元宗はその人を重んじ、報恩院に住まわせ、浄慧禅師の号を賜った。
- ある人が画障子を献じたとき、文益は「そなたは手が巧みなのか、心が巧みなのか」と問うた。「心が巧みです」と答えると、文益は「どれがそなたの心か」と問い、その人は黙って答えられなかった。機に応じて巧みに導くのは、みなこの類であった。
- 保大の末年、政治が乱れ国が危ういのに、上下ともに気にかけなかった。文益は牡丹を見て偈を献じて諷し、「髪は今日より白く、花は是れ去年の紅、何ぞ須いん零落を待ちて、然る後に始めて空を知るを」と述べた。元宗はその意をかなり悟った。
- 交泰元年(958年)に病を得、元宗は自ら手厚く見舞った。まもなく剃髪し身を浄めて結跏趺坐して逝った。顔かたちは生けるようだった。享年七十四。
- 公卿以下が素服して全身を江寧県丹陽に運び、塔を建てた。大法眼禅師と諡し、塔を無相と称した。後主は文益の弟子の行言を導師として法を開かせ、改めて文益に「大智蔵大導師」と諡した。
僧深
- 深は金陵に住んで説法した。元宗はあるとき綵絹一箱と剣一振りを置き、深と文益に「高座での問答が当を得ていれば絹を賜り、そうでなければ剣を賜る」と言った。
- 文益が座に登ると、深は「今日、勅を奉じて参問いたします。師はお許しくださるか」と言った。文益が「許す」と答えると、深は「鷂子は新羅を過ぐ」と言い、絹を捧げ持って行ってしまった。
- ある日、智明とともに淮を渡ったとき、漁師が網を張っているのを見た。網から出た魚がいたので、深は「これは衲僧に似ている」と言った。智明が「はじめから網に入らなかったのには及びますまい」と言うと、深は「あなたはまだ悟りが浅い」と言った。智明は真夜中になってようやく悟った。
僧慧朗
- 慧朗は廬山の化城寺にいた。宋斉丘がしばしば開堂説法を請い、当時、法眼宗の高座と称された。
僧智明
- 智明は金陵の清涼禅院に住んだ。後主が招いて座に登らせたとき、ある僧が「言句はすべて方便に落ちるのか、落ちないのか」と問うた。智明は「国主がここにおられる。無礼はできぬ」と答えた。その玄妙な機鋒は多くこの通りであった。
行因禅師
- 行因禅師は廬山の仏手巌に住み、道を学んだ。後主が礼をもって重んじ、詔して棲賢寺に住まわせた。ある夜、大雪のなか、ふと旧の隠棲地に逃げ帰り、巌に身を寄せて立ったまま入寂した。
僧清禀
- 清禀、泉州の人。かつて雲門に参じて悟りを認められた。後主が迎えて光睦に住まわせ、まもなく澄心堂に召し入れて諸方の語要を集めさせること十年、のち出て瑞州の洞山に住んだ。
僧行言
- 行言、泉州の人。後主が報慈院を建てて行言に宗風を大いに闡揚させ、集まる衆は二千余人に及んだ。「玄覚導師」の号を賜った。
- 行言は堂に登って「生を示すは生に非ず、滅に応ずるは滅に非ず。生滅すでに洞らかにして、乃ち真常と曰う」と説き、また「仮を言えば影は千途に散じ、真を論ずれば一空に迹を絶つ」と言った。いずれも道を見た者の言葉である。
僧智筠
- 智筠、河中の王氏の子。禅理に精通した。はじめ棲賢に住み、後主が金陵に浄徳院を建てて住まわせ、「達観禅師」の号を賜った。
- つねに「私は巌谷に身を投じ市中に跡を絶つことができず、禁庭に出入りして世の主を煩わせている。これは私の過ちだ」と言い、しばしば山に帰ることを請うた。後主は五峰の棲玄禅院を与えた。
僧文遂
- 文遂、杭州の人。もとの姓は陸。かつて『楞厳経』の注釈を作り、師の文益のもとに赴いて自作を述べた。
- 文益が「『楞厳』には八還の義があるのではないか」と問うと、文遂は「その通りです」と答えた。「明は何処に還るか」と問うと、「明は日輪に還ります」と答えた。「日は何処に還るか」と問うと、文遂はぼんやりして答えられなかった。
- 文益は注釈の文を焼くよう戒めた。これより知的な理解に頼ることを忘れ、禅学は日に日に進んだ。後主は「雷音覚海大導師」の号を与えた。
僧匡逸
- 匡逸、明州の人。文益の高座の弟子であった。後主が詔して金陵の報恩院に住まわせ、「凝密禅師」の号を与えた。
僧守訥
- 守訥、字は妙空。雪峰の法を嗣ぎ、嘉祐禅院に住んだ。後主のとき三度詔があったが応じず、国人はこれを高しとした。
僧玄寂
- 玄寂、姓は高氏。旧唐の節度使・高駢の一族の子である。家を捨てて剃髪した。群書に博く通じ、講説に巧みだったが、奔放で気ままで、酔わない日はなく、自ら「酒禿」と号したという。
- 後主が召して『華厳』の梵行の一品を講じさせ、金帛を厚く与えると、玄寂はその日のうちにすべて酒屋に送り、日夜さかんに飲み、酔えば数十人の子どもを連れて道で高らかに歌った。その歌に「酒禿 酒禿、何ぞ栄え何ぞ辱めん、但だ見る 衣冠の古丘と成るを、見ず 江河の陵谷に変ずるを」とあった。ある日、石子岡で酔って死んだ。
小長老
- 小長老は淮北の僧である。一説に江氏の子だともいう。
- 自ら中華の教化を慕って遠くから来たと言い、朝夕に説法に加わって六根・四諦の説を論じた。後主は大いに喜び「一仏、出世せり」と言った。身に紅羅に金を織り込んだ衣をまとっていたので、後主がその奢りをそしると、「陛下は『華厳経』をお読みでないので、仏の富貴をご存じないのです」と答えた。
- そして後主に寺院を広く施すよう勧め、また牛頭山に大きな伽藍を起こすことを請い、僧徒を大勢集めて日々斎食を設けた。食べ残しが出ると翌日また新しく用意し、これを「折倒」と称した。識者は「折倒」は敗亡の兆しだと言った。
- 金陵が包囲されると、後主は小長老を召して禍福を問うた。「臣が仏力で防ぎましょう」と答え、城に登って大声を上げながら四度も周囲を巡った。後主は僧俗の軍士に救苦菩薩の名を唱えさせ、城中は沸き返った。
- まもなく四方から矢と石が降り注いだ。ふたたび小長老を召して指揮させようとしたが、病と称して起きなかった。ここで初めてその言葉が偽りだと疑い、毒殺した。
- これより先、浄徳尼院には八十余人がおり、みな宮人から出家した者だった。都城が陥ちようとするころ、院の庭に薪を積み、後主と「万一のことがあれば宮中で火を挙げて合図とする。私もそなたたちも共に焼け死のう」と約していた。保儀の黄氏が宮中で蔵書を焼いたとき、浄徳院は遠くから炎を望んで積んだ薪に火をつけ、火に飛び込んで死んだ。一人も逃れようとする者はいなかった。
- そのころ城中には僧が千人おり、たびたび表を奉って堅甲を着け武器を執って国難に殉じたいと願ったが、後主は許さなかった。
- もともと後主と周后は仏法を篤く信じ、僧の帽と法衣を着けて仏典を誦し、自ら僧徒の厠籌(かわや用の木片)を削り、それを頬に当てて試し、少しでも刺があれば手直しした。両手をつねに仏印に結んで歩いた。道士で僧になる者には金二両を与えた。僧が姦淫を犯しても仏を百拝させるだけで釈放した。そのため乱れが公然と横行し、禁ずるものがなかった。
- 諸郡で死刑を執行するときは、必ず期日前に文書を奉り、たまたま斎日に当たれば宮内で仏灯を向かい合わせに燃やし、夜明けまで保つかどうかを判定とした。これを「命灯」といい、火が消えれば法どおり執行し、消えなければ死を免じた。法を犯した富商や大商人は、左右に厚く賄賂を贈って灯を継ぎ足させ、免れた者がきわめて多かった。