十国春秋卷三十二 南唐十八 列傳 彭利用

要約

彭利用は広陵の人で、周の軍が淮南を攻め下したのを機に南へ逃れて廬陵に寓居した。性は朴訥で粗野でありながら、家人や幼子と向き合うだけの場でも必ず書史を引いて断章破句の大仰な言い回しで日常会話に代えたため、俗に「掉書袋」(学識をひけらかす者)と呼ばれ、彭書袋と目された。姓を問われれば「隴西の遺苗、昌邑の余胄」、住まいを問われれば「生まれは広陵、育ちは螺渚に僑居」と大仰に答えたという。

下男の過ちを叱る際にも紀綱の僕がどうのと経書めいた美辞麗句を連ね、父を喪って客に弔いを受けた際には司馬相如や殷仲堪の故事を引いて痛心疾首と大いに慟哭し、隣家の火事を消しに行きながらもゆっくりとその盛んな様を「煌煌然赫赫然」と難解な言葉で眺めるなど、日常のあらゆる場面で滑稽なまでの衒学趣味を発揮した。急に出かけて翌朝また出かける理由を尋ねられても、朱亥の椎や陳平の戸を持ち出して回りくどく答えるなど、その言動は常に俳諧めいたものであった。

進士を六度受験しながらついに及第せず、年六十一のある夜、宴席で寝入ったままこの世を去った。その言行の滑稽さから、正史では詼諧を語る人物の列に付されている。

現代語訳全文

俳諧めいた「掉書袋」の生涯

  • 彭利用は広陵の人である。周の軍が淮南を攻め下したとき、利用は南に逃れて廬陵に寓居した。性は朴訥で粗野であり、たとえ家で家人や幼子と向き合っていても、必ず書史を引いて断章破句(原典の一節を断片的に引用すること)で日常会話に代えたので、俗にこれを「掉書袋」(学識をひけらかす)と呼び、彭書袋と目された。ある時その姓を問う者があると、答えて「隴西の遺苗、昌邑の余胄です」と言った。またその居所を問われると、「生まれは広陵、育ちは螺渚に僑居しております」と答えた。
  • その下男が過ちを犯したとき、利用はこれを責めて「始め私はお前を紀綱の僕(家の秩序を支える者)と思い、その身に百倍の信頼を置き、お前に頼って心を同じくし力を合わせ、左にも右にもお前がいてくれると思っていた。それが今や中道にして廃れ、侮り怠って自らを賢しとする。今より後、過ちがあれば改めよ。私は公に循い私を滅して、これをお前を市朝に鞭打ってやろう。ただお前は西へも東へも自由に遨遊するばかりだな」と言った。
  • また利用が父を喪ったとき、客が弔問に来て言葉をかけると、答えて「家君は不幸にも短命で、諸子は四方に糊口をしのいでおります。帰って相如の壁(司馬相如が病に伏した家)を見ても空しく仲堪の棺(殷仲堪の柩)が残るのみ。まことに痛心疾首、寒からずして慄えます」と言い、そのまま大いに慟哭した。
  • たまたま隣家が火事になったとき、利用は救いに行きながら、ゆっくりとこれを望んで「煌煌然赫赫然として近づくべくもない。燧を鑽って火を得て以来、いまだかつてこれほど盛んなものはなかった。これを撲滅できようか」と言った。
  • また常に賓客と遠くに出かけたが、にわかに告げずに帰ってきて、翌朝また出かけた。その理由を問うと、利用は「ふと朱亥の椎(力士朱亥が持つ鉄槌)を思い、なお陳平の戸(陳平の貧しい家の戸)に倚りかかっている。切に恐れるのは数鈞の重み(重い荷)が、かえって六尺の孤(幼い子)を傷つけることです」と言った。その言葉はこのような俳諧めいたものが多かった。
  • 利用は進士に挙がろうとしたが、このために六度受験して合格せず、年六十一のある夜、宴の席で寝入ったまま卒した。