諧謔をもって諫めた俳優
- 李家明は廬州の人で、楊花飛と同僚であり、諧謔・滑稽をよくした。保大の初め、晋王景遂らはみな皇弟として爵位を加えられたが、恩は臣下には及んでいなかった。家明はそこで曲宴(酒宴)の日、俳優の戯れで翁と媼に扮して並んで座らせ、多くの婦人たちに飲食を進めさせ拝礼を頗る繁くさせたところ、翁媪は怒って「自家の官が自家に居るのに、どうしてこう何度も拝礼させるのか」と言った。元宗は笑って「私は国主として恩は外に及ばぬはずがない」と言い、これによって百官の官位を差をつけて進めた。
- 家明は常に元宗に従って後苑に遊んだ。元宗が台に登って鍾山を望み「雨がすぐに来るだろう」と言うと、家明は「雨は来ても、必ず城には入らないでしょう」と言った。元宗は怪しんで理由を問うと、家明は「陛下が重税を課すのを恐れているのです」と答えた。元宗はそこで𣙜務(税務)に命じて徴収を半分に減らした。
- 宋斉邱は一人の子を失って悲哭すること一月あまり止まなかった。斉王景達がこれを慰めても止めようとしなかった。家明は「これは分からせるのは容易です」と言い、紙鳶(凧)を作って大きく「一子すら捨てられぬのに、譲皇(引退した皇帝を指す比喩)の百口をどうして手放せようか」と書き、これを庭中に落とすと、斉邱はこれを手に取って見て涙を収めて出てきた。
- 鄱陽王延政が金陵に至り、公卿は邸第で宴を催したが、延政は物を賜るのを惜しんだ。家明はこれを揶揄して「賤しい工人には芸もございませんので、大王に告げて一物を賜るようお願い申し上げます。大殷の平天冠は今はもう用がないでしょうから、家明が取って役者の衣装にさせてください」と言った。延政は黙り込み、それゆえ悶々として病に伏し薨じた。
- 元宗が江北を失い南都に遷ったとき、龍舟が趙屯に至り、酒杯を挙げて皖公山を望み「好い青峭な数峰だが、何という名か分からない」と言うと、家明は「これは舒州の皖公山です」と答え、詩を献じて「皖公山は縦い好くとも、御觴の中には落ちない」と詠んだ。元宗は太息して酒宴を罷めた。後主の時代、家明は老いて寵を失っていた。