十国春秋卷三十一 南唐十七 列傳 周彬

田畑より道

  • 周彬は禾川の人である。門を閉ざして読書し、家人の生産(家業)に携わらなかった。妻がこれを咎めて「あなたの兄弟はみな田畝に力を尽くして豊かさを致しているのに、あなただけは故紙を弄んで自ら困窮している。何の益があろうか」と言うと、彬は笑って「田を耕すのは道を耕すのに及ばない。児女子(女子供)の知るところではない」と言った。
  • 烈祖が金陵を鎮すると、儒生を招辟し、彬は行ってこれに依った。禅代(禅譲)の後、制度は草創の時であった。たまたま南郊の事があり、彬は『郊望論』数千言を著し、広く前古の得失を陳べてこれを上呈すると、諸衛巡官に署された。
  • 元宗は寿王景遂と書を交わして辟召し、賜与は優渥であった。まもなく告げて帰り、得たところの金玉・繒幣を庭中に列ね、その妻を顧みて「伯叔の田畝と、結局どちらが優れているか」と言った。彬はもとより郷里に軽んじられていたが、この時に至って言及する者があると、彬は「昔、魯の人が孔子を東家某(隣家の何某)と軽んじたというではないか。まして庸人(凡人)をや」と言い、問題にしなかった。
  • しばらくして大理司直を授けられ、本県令を歴任し、累進して尚書郎に至り卒した。