才気と非業の死
- 胡元龜は代々廬陵の人で、永新に居った。若くして俊才があり、常に本邑の令に謁見すると、その風貌が瓌傑(雄偉)であるのを見て、屏風の間に描かれた戯れる珠龍の絵をもって元龜にこれを詠むよう頼んだ。当時、邑令は賄賂を受け取ることが多かった。元龜は題句して「身を翻して白浪に騰り、爪を探りて元珠を攫む」と詠み、これをそしった。
- 令は飲食を設けて歓を尽くさせたが、たまたまその意図を暴く者があり、令は大いに怒ってこれを追捕した。元龜は金陵に逃げ入り、館吏の曹郎徐某の家でその子のために催妝詩を作ると即座に成った。しかし徐には同僚の郎で、常に自負が強く詞賦をもって元龜を窮地に陥れようとする者があった。元龜は牋を裂いて案に拠り迴文体でこれを嘲ると、郎は一言も返せず謝って去った。これにより名を知られた。
- まもなく徐が宋齊邱に薦めると、射策(試験)に応じて官に入り、文房院副使を授けられた。数年して省親(親の見舞い)のために帰った。天威都虞候の張巒が桂林を征討して班師(帰還)するとき、元龜と旧交があったのでその邸を訪ね、堂に登り母を拝し、盤桓(滞在)すること二泊に及んだ。その巒に重んじられることはこのようであった。
- まもなく臨川令を授けられ、頗る政績を著した。この時、齊王景達が出て撫州を鎮していたが、元龜は朔望(月初・月半ばの参賀)の起居に慢色があり、また常に王府の公侯を庭で辱めた。元宗はこれを代えようとしたが、まもなく人の妻を娶り訴えられた罪に連座し官を免じられ、広陵に徙された。しばらくして恩赦に会い、復職を求めたが報告されず、そこで『怨詞』三十篇を作った。元宗はこれを聞いて鴆殺した。時に年はまさに四十であった。