十国春秋十國春秋卷三十一 南唐十七 孫魴・周彬・胡元亀ほか文人と、応用・董源・徐熙ほか書画の名手

孫魴

  • 孫魴、字は伯魚。聡明で学を好んだ。旧唐の都官員外郎・鄭谷が乱を避けて江淮に来たとき、魴は師事してその詩歌の体法をすべて習得した。
  • 呉のころ文雅の士が集まり、魴は沈彬・李建勲と詩社を結んだ。彬は詩の批評を好んだ。あるとき建勲が彬と語らっていたとき、魴が席にいなかったので魴の詩を持ち出して問うた。彬は「これは風雅の格法があるわけではなく、ただ人間の煙火の気が多いだけだ」と言った。魴が出てきて「風雅の格法がないのはその通りだが、煙火の気が多いとはどういうことか」と詰め寄ると、彬は笑って「君の『夜坐』の句に『劃多くして灰は蒼虬の跡を雑え、坐久しくして煙は消ゆ宝鴨の香』とある。炉端の作でなくて何だ」と答え、一座は大笑した。
  • 魴の「題金山寺」の詩は張祐の詩と前後して並び称され、当時の絶唱とされた。
  • 烈祖が召見して宗正郎を授けた。没後、詩百篇が世に行われた。

周彬

  • 周彬、禾川の人。門を閉ざして読書し、家業の生産に手を出さなかった。妻が「兄弟はみな田を耕して豊かなのに、あなただけ古紙を弄んで困窮している。何の益がありますか」となじると、彬は笑って「田を耕すより道を耕すほうがよい。女子どもに分かることではない」と言った。
  • 烈祖が金陵に鎮して儒生を招いたとき、彬は行って身を寄せた。禅代の後、制度が整わぬなか、南郊の祭祀が行われることになり、彬は「郊望論」数千言を著して前代の得失を広く論じ、これを奉った。諸衛巡官に任じられた。
  • 元宗と寿王・李景遂が書を送って競って招き、下賜も厚かった。まもなく帰郷を願い、得た金玉や絹布を庭に並べ、妻を顧みて「伯叔の田畑と、結局どちらが優れているか」と言った。
  • 彬はもともと郷里で軽んじられていたので、そのことを口にする者があると、彬は「昔、魯の人は孔子を『東家の某』と呼んだ。まして凡人においてをや」と言い、意に介さなかった。
  • 久しくして大理司直を授けられ、本県の県令を歴任し、累進して尚書郎となって没した。

胡元亀

  • 胡元亀、代々廬陵の人で永新に住んだ。若くして俊才があった。あるとき本邑の県令に謁したとき、令はその風貌の傑出したのを見て、衝立に描かれた「戯珠竜」の絵を題に詩を作らせた。当時の県令は賄賂を受けることが多かったので、元亀は「身を翻して白浪に騰り、爪を探りて玄珠を攫む」と詠み、それとなく諷した。令は飲食を設けて歓を尽くして終わったが、その意を告げ口する者があり、令は激怒して捕らえようとした。
  • 元亀は逃げて金陵に入り、館吏の曹郎・徐某の家に寄り、その子のために催粧詩を作って即座に仕上げた。徐には同僚の郎で自負の強い者があり、詞賦で元亀を困らせようとした。元亀は紙を裂き机に向かって回文体でこれを嘲り、その郎は一言も返せず謝って去った。これにより名が知られた。
  • まもなく徐が宋斉丘に推薦し、対策を経て出仕し、文房院副使を授けられた。数年後、親を省みるため帰郷した。天威都虞侯の張巒が桂林征討から凱旋する途中、元亀とは旧知だったので、その邸を訪ねて堂に登り母を拝し、二晩逗留した。巒に重んじられることこの通りであった。
  • まもなく臨川令となり、政績が大いに上がった。ときに斉王・李景達が撫州に出鎮していたが、元亀は朔望の挨拶に不遜な態度を見せ、また王府の公侯を庁で辱めたこともあり、元宗は交代させようとした。やがて訴訟の相手方の妻を娶ったことで免官となり広陵に移された。
  • 久しくして大赦の機会に叙用を求めたが返答がなく、「怨詞」三十篇を作った。元宗はこれを聞いて毒殺した。ときに年わずか四十。

伍喬

  • 伍喬、廬江の人。学を好み、淮の人には自分より上の者はいないと考え、江を渡って廬山国学に住み、苦節して励んだ。
  • ある夜、人の掌が窓の隙間から入ってきて「読易」の二字を記し、たちまち消えた。喬は大いに驚き、以来『易』を取って読み、その精微を探った。
  • 数年後、山中の僧が、仰ぎ見ると大きな星の芒がきわめて大きく、傍らの人が「これは伍喬の星だ」と指す夢を見た。覚めて喬を探し当て、財を傾けて世話をし、金陵に入って進士に応じさせた。
  • 試験は「画八卦」の賦と「霽後望鍾山」の詩だった。故事として、合格者は試験官が必ず堂に招いて酒を設ける。このとき宋貞観が真っ先に着席し、張洎が続いて来た。試験官は洎の文を優れているとして、貞観に会釈して南に座らせ、洎を西に座らせた。酒が数巡してから喬がようやく答案を出した。試験官は傑作と嘆じ、貞観の席を北に移し、洎を南に移し、喬を賓席に据えた。
  • まもなく再審査を経て榜が出ると、喬が第一、洎と貞観がこれに次いだ。当時、試験官の鑑識眼の精確さが称えられた。
  • 元宗は喬の文をたいそう愛し、石に刻んで永く手本とするよう命じた。官は考功員外郎に至って没した。文集一巻が世に行われた。

康仁傑

  • 康仁傑、泉州の人。若くして髪を剃って僧となったが、儒学を好んでよく励んだ。陳徳誠が池州刺史のとき、仁傑は江淮に遊んで詩を寄せた。徳誠は仕官を勧めて朝廷に推薦した。
  • 仁傑は儒服に着替えて金陵に至った。折しも朝廷の貴人が昇元閣で宴を開いており、仁傑は席に加わって「登閣」の詩に和し、一座を驚かせた。
  • 後主はその名を聞いて召見し、各地の風土民俗をあまねく問うた。仁傑は淀みなく答え、陳洪進が漳州・泉州を占拠した経緯を詳しく述べ、自作の文も献じた。鄂州文学を授けられ、溧陽主簿に補せられた。
  • 生来清廉倹約で、私的な請託を受けつけなかった。のち吉州に出て屯田を検地し、地味の肥痩を見て等級を定めたので、人々の多くが納得した。汾陽令に遷った。金陵が敗れると、仁傑も没した。

余璀

  • 余璀、字は崐美、一名は賜。古田の人。元宗に仕えて左拾遺となった。唐律詩に巧みで、『拾遺集』若干巻がある。

劉洞

  • 劉洞、廬陵の人。若くして廬山に遊び、陳貺に詩を学んだ。思索に励んで怠らず、十日も顔を洗わないことがあった。廬山に住むこと二十年。五言律詩に長じ、自ら「五言金城」と号し、賈島の遺法を得ていた。
  • 後主が即位して詩人にとりわけ心を寄せたとき、洞を推す者があり、洞は詩百篇を献じ、巻頭に「石城篇」を置いた。その詞に「石城の古き渡頭、一望 思い悠悠、幾許ぞ六朝の事、禁ぜず江水の流るるを」とあった。後主は読んで感傷し、長く心が晴れなかった。そのため退けられ、洞も二度と顧みられなかった。
  • 金陵が包囲されたとき、洞はまだ城中におり、道端に「千里の長江 皆な馬を渡し、十年 士を養いて何人をか得たる」と書きつけた。
  • 国が亡ぶと、洞は旧宮闕を通りかかって徘徊し、詩を賦した。多くは感慨と悲傷を述べたもので、不遇を理由に恨みごとは言わなかった。開宝八年(975年)に没し、遺集が世に行われた。

夏宝松

  • 同時代の夏宝松もまた廬山に隠れ、洞と詩友となった。洞に「夜坐」の詩、宝松に「宿江城」の詩があり、いずれも当時称えられた。百勝節度使の陳徳誠は詩を作って二人を称え、「劉夜坐・夏江城」と呼んだ。
  • 宝松、吉陽の人。若くして江為に詩を学んだ。江為が旅先で病臥したとき、宝松は自ら薬を舐めて味を見、夜も帯を解かず看病した。江為はその徳に感じ、数年共に過ごしてその秘伝をすべて授けた。
  • 宝松は詩に巧みだったが金銭に汚く、弟子を取っても一度も集まって講じたことがなく、金品を厚く出す者にだけ私かに指導した。しかも「詩の要訣は、私が一つ瓢箪に入れて持っている。よい値がつくのを待つのだ」と言いくるめたので、賄賂が多く集まった。
  • 当時また張迴という者があり、詩吟に苦心していたが、ある夜、五色の雲を呑む夢を見て、以来、詩の道に精通した。

舒雅

  • 舒雅、字は子正。宣城の人。容姿が秀でており、才思を自負していた。保大年間、金陵に上京する際、自作の文を携えて吏部侍郎の韓熙載に献じた。熙載は一見して旧知のように迎え、館に住まわせて世話をした。
  • 雅は機知に富み受け答えが流れるようだったので、熙載は忘年の交わりとし、しばしば雅と服を取り替えて戯れ、侍女たちと入り交じって笑い興じた。
  • 数年後、熙載が貢挙を主宰し、雅を高位で及第させた。朝野はもともと雅の才に服しており、異論はなかった。ところが後主が中書舎人の徐鉉に雅ら五人の再試を命じると、雅は試験を受けなかった。
  • のち宋に入って将作監丞となり、まもなく秘閣校理となって呉淑と名を並べた。久しくして舒州に出て知事となり、山水の奇秀を見て終生ここに住みたいと願った。任期が満ちると霊仙観を掌り、七十余歳で没した。

陳元亮

  • 陳元亮、永春の人。兄の保極とともに後主に仕え、いずれも才学で名があった。後主は「二英」と称した。

張惟彬

  • 張惟彬は西昌令・張翊の弟。幼くして二経を暗誦して童子科に及第し、文章で名があった。長じて蘄州黄梅尉を授けられ、まもなく武昌崇陽主簿に改まり、再び選に入って廬陵令に除された。交代を受けたがまだ赴任しないうちに金陵が陥ち、病を発して没した。

邱旭

  • 邱旭、字は孟陽。宣城の人。もと農家の子で、二十歳になってようやく読書し文章を習った。まもなく金陵に上京し、九度受験して六、七度は白紙のまま提出したが、旭はいよいよ自ら励んで恥としなかった。それによって学問は進んだ。
  • 後主のとき「徳厚載物」の賦を試みて第一に及第した。
  • 国が亡んで宋に帰したとき、銓衡を判じていた呂蒙正はかねて旭の名を知っており、「あなたは賦をよくする人ではないか」と問うた。旭が「江南で賦を献じてたまたま第一になりました」と答えると、蒙正は「名を聞いて久しい。古人かと思っていたが、同時代の人だったのか」と言い、推薦して令録に任じ、京官に遷った。衡州で没した。
  • かつて古の名賢の遺言を集めて『賓朋宴語』を編み、世に行われた。その詞賦は旧唐の程度の体を得ており、当時の人は手本にした。

羅穎

  • 羅穎、南昌の人。経伝を広く読み、同郷の彭会とともに詞賦で称えられた。
  • 開宝年間、金陵に赴いて「銷刑鼎」の賦と「儒術之本」の論を試み、有司は鄧及を第一とし、穎を最下位とした。榜が上奏されると、後主は穎を第二に繰り上げ、自ら筆でその名に圏点を打った。
  • その夜、穎は黒い気が身を巡り、背の高い人が上から引き出してくれる夢を見た。
  • 宋軍が金陵を下すと、穎は再度受験して落第した。道すがら漢の高祖の廟を通ったとき、詩を作ってこれをそしった。まもなく自ら冠を脱いで身を屈し、数日で没した。

呉淑

  • 呉淑、字は正儀。潤州丹陽の人。父の文正は呉に仕えて太子中允に至り、学問を好んで多くの書籍を自ら書写した。
  • 淑は幼くして俊敏で、文を綴るのが速かった。韓熙載・潘佑は文章で名高かったが、淑を一目見て深く重んじ、以後、意味の通りにくいところや言い回しに困るところがあると、必ず淑に述べさせた。
  • 校書郎として内史に直した。国が亡んで宋に帰り、長く任官されなかったが、のち近臣の推薦で大理評事を授けられ、『太平御覧』『文苑英華』の編纂に加わり、また『事類賦』を作って献じた。累進して職方員外郎となって没した。

陳彭年

  • 陳彭年、字は永年。撫州南城の人。父の省躬は鹿邑令。
  • 彭年は幼くして学を好んだが、母は一人子なのを溺愛して夜の読書を禁じた。彭年は奥まった部屋で灯を覆って読み、母に知らせなかった。十三歳で『皇綱経』一万余言を著し、名だたる人々に賞讃された。後主はこれを聞いて宮中に召し入れ、幼子の李仲宣と交わらせた。
  • 金陵が陥ちると、彭年は徐鉉に師事して文を学び、宋の太平興国年間に進士に及第した。のち王欽若・丁謂に付き従い、官は兵部侍郎に至った。事跡は『宋史』に詳しい。大中祥符九年(1016年)に没した。
  • 彭年は博聞強記で、著書に文集百巻、『唐紀』四十巻、『江南別録』若干巻がある。

魏羽・劉式

  • 魏羽、字は垂天。歙州の人。若くして文を綴り、後主に上書して弘文館校書郎に任じられた。当塗県を雄遠軍としたとき、羽をその判官とした。宋軍が渡江してその境に出ると、城を挙げて降り、太子中舎に抜擢され、累進して礼部侍郎に至って没した。
  • また劉式という者があり、袁州の人。やはり後主のとき三伝の科に及第し、宋に帰して累任して刑部員外郎に至った。

洪慶元

  • 洪慶元、江寧の人。祖父の勲は烈祖のとき崇文館直学士、父の寿は桐城令。慶元は読書を好み文章をよくし、後主に書を献じて奉礼郎を授けられ、新喩令に補せられた。国が亡んで宋に帰し、寛句令となった。

応用・王文秉——書

  • 応用は書法で江南に名があった。細字を書くのに巧みで、毛髪ほどの細さだった。一枚の銭の上に『心経』を書き、また一粒の麻の上に「国泰民安」の四字を書いた。
  • 当時また王文秉という者があり、小篆に巧みで、字画は徐鉉を遥かに超えていた。その書いた「紫陽石磬銘」「千字文」が世に伝わる。

朱澄・高太冲

  • 朱澄は元宗に仕えて翰林待詔となり、建物を描くのに巧みだった。しばしば高太冲らと合作で「雪景宴図」を描き、当時、絶妙の腕と称された。
  • 太冲は肖像を写すのに巧みで、元宗の真影を描いてその神韻を得た。思もまた待詔であった。

陶守立

  • 陶守立、池州の人。保大年間に受験して及第せず、斉山に退いて詩と絵画を楽しんだ。仏画・道釈・鬼神・山川・人物を描くのに巧みだった。後主の金山水閣にあった十六羅漢像は守立が描いたものである。

顧閎中

  • 顧閎中は元宗父子に仕えて待詔となり、人物画をよくした。
  • 当時、韓熙載は音曲や妓を好み、もっぱら夜の宴を開き、賓客が入り乱れて節度がなかった。後主はその才を惜しんで咎めなかったが、酒宴と灯火のあいだで杯を交わす様子を見たいと思ってもかなわなかった。そこで閎中に命じて夜、その邸に行かせ、こっそり窺わせた。閎中は目で覚え心に記して絵に描いて奉った。それで世に「韓熙載夜宴図」が伝わるのである。

梅行思

  • 梅行思(再思とも)、江夏の人。人物・牛馬を描いて絶妙だったが、とりわけ鶏に巧みで、それで名を知られ、世に「梅家鶏」と呼ばれた。後主に仕えて待詔となり、評価はきわめて高かった。

曹仲元

  • 曹仲元、豊城の人。後主のとき待詔となり、道釈・鬼神を描くのに巧みだった。はじめ呉道玄を学んだが成らず、その法を捨てて別に細密な画風を作り一家をなした。とりわけ彩色に巧みだった。
  • あるとき建業の寺で上下の壁に絵を描き、八年たっても仕上がらなかった。後主がその遅さを咎め、周文矩に検分させると、文矩は「仲元は上天の本来の姿を描いているので、凡工の及ぶところではありません。それでこのように遅いのです」と言った。後主はそこで慰め諭した。

周文矩

  • 周文矩、句容の人。絵によって後主の翰林待詔となった。道釈・鬼神・車服・楼観に巧みで、とりわけ士女図に精しく、彩色は繊細で美しかった。
  • 後主が文矩に「南荘図」を描かせ、見てその精緻さに嘆じた。開宝年間、その図を宋に進めた。文矩には「遊春」「搗衣」「熨帛」「繡女」などの図が世に伝わる。

顧徳謙

  • 顧徳謙、江寧の人。人物を描くのに巧みで、その風神は清らかで比類なかった。後主は愛重して「古に顧愷之あり、今に徳謙あり。二顧が相並んで、画の絶技を継いだ」と言った。

厲昭慶

  • 厲昭慶、豊城の人。人物画に巧みで、翰林待詔となった。後主に従って宋に入り、図画院祗候を授けられた。

董源

  • 董源(元とも)は絵に巧みで、後主のとき後苑副使となった。描くところは多く山水で、竜が蟄居から出て洞を昇り降りする様子を自在に描いた。人物にも巧みだった。
  • ある日、後主が碧落宮にいて馮延巳を召して政事を論じようとしたところ、延巳は宮門で躊躇して入ろうとしなかった。後主が急かすと、延巳は「青と紅の錦の袍を着た宮女が門に立っておりますので、進みかねております」と言った。使者に一緒によく見させると、それは八尺の瑠璃屏風に西施を描いたもので、董源の筆であった。

徐熙

  • 徐熙、江寧の人。代々江南の名家で、識見が広く悠然として、高雅をもって任じた。花木・禽魚・蝉蝶・蔬果を描くのに巧みで、後主はその作品をこよなく愛重した。
  • 熙はしばしば二幅の絹の上に花の群れと重なる石を描き、傍らに薬草を出し、禽鳥・蜂・蝉を交えた。それが後主の宮中に掛ける調度となり、「鋪殿花」と呼ばれ、次のものを「装堂花」といった。

解処中・韓幹

  • 解処中は後主に仕えて翰林司芸となり、とくに竹を描いてその優美な姿を描き尽くした。
  • また韓幹という者があり、水を描くのに巧みだった。画院の学生はみな当時に名があった。

董羽

  • 董羽、字は仲翔。常州の人。吃音で早口に話せなかったので、俗に「董唖子」と呼ばれた。竜・水・海の魚を描くのに巧みで、後主に仕えて翰林待詔となった。
  • 鍾陵の清涼寺には元宗の八分書の題名、李蕭遠の草書、そして羽の描いた海水があり、これを三絶とした。羽はまた後主の香花閣の図屏を描き、大いに称賛された。
  • のち宋に帰した。太宗がしばしば端拱楼の下の四壁に竜と水を描かせ、羽は思いを凝らして極致を尽くした。ある日、太宗が妃嬪と楼に登ったとき、幼い皇子が絵の壁を見て驚いて泣いたので、急ぎ塗り潰させ、羽はついに賞を受けなかったという。

衛賢・王斉翰・蔡潤・竹夢松

  • 衛賢は内供奉となり、楼台・人物に長じた。かつて「春江図」を描き、後主がその上に「漁父詞」を題した。
  • また王斉翰は仏道・鬼神を描くのに巧みだった。金陵が陥ちたとき、歩卒の李貴が仏寺に入り、斉翰の描いた羅漢十六幅を得て持ち出した。
  • また蔡潤は舟と水を描くのに巧みだった。はじめ後主に従って宋に帰し、八作司の彩画匠人に属していたが、のち「舟車図」を描いて奉り、画院の職に補せられた。
  • 当時また竹夢松があり、後主に仕えて別駕となった。人物と宮殿を描くのに巧みで、その巧みさは当代随一だった。夢松は溧陽の人である。