出自と金陵救援への出兵
- 朱令贇は大将軍匡業の従子(甥)である。額は椎(つち)のようで目は鷹のように鋭く、趫捷(すばやい)で射を善くし、軍中では「朱深眼」と号された。累進して神衛軍都虞候に至り、まもなく林仁肇に代わって鎮南軍節度使となった。
- 開宝中、後主が討たれ宋軍が既に金陵を囲むと、令贇を召して難に赴かせた。軍が湖口に至ると、諸将と謀って「今、前進すれば北軍が我らの後ろに拠り、上江は阻隔される。進んでも敵を破らず、退けば餽饟(軍糧の補給)が絶える。どうしたものか」と言った。そこで南都留守の劉克貞に檄を発して軍に赴かせ、その到着を遅らせて代わりに湖口を拒ませようとした。
- しかし発するに及んで後主は危急となり、兵を督促する書状が続々と至り、令贇は守ることができなくなった。当初の議では、戦櫂都虞候の王暉とともに流れに乗って前進し、潯陽湖から木を編んで大栰(いかだ)を作った。長さ百余丈、大艦は千人を容れられ、突入して采石の浮橋を断とうとした。しかしちょうど江水が涸れ、舟と栰が難渋した。
火油の戦と敗死
- 宋の軍はひそかに長い木を洲渚の間に立てて帆檣のように見せかけたので、令贇は伏兵があるかと疑って進まなかった。虎蹲洲に至って合戦するに及び、令贇の乗る艦はとりわけ大きく大将の旗鼓を建てていたので、宋の軍は小舟を集めてこれを攻めた。
- これより先、令贇は巨舟を造って葭葦(あし)を実らせ膏(あぶら)を注ぎ、「火油機」と名づけていた。この時、火油をもって縦(ほしいまま)に焼いたが、宋人が支えきれなかったところ、たまたま北風が吹いて逆に自らを焼いてしまい、水陸の諸軍十五万は戦わずしてみな潰えた。令贇は惶駭して火に身を投げて死んだ(『江南野史』にはその子が身を脱して南昌にいたとある)。
- 糧米・戈甲はことごとく焼け、一つも残らず、煙焔はやまないこと十日以上に及んだ。これより金陵の外援はついに絶え、亡ぶに至った。
- はじめ軍が石碑営に至ったとき、子(の刻)に苦しい霧が昼にたちこめ、幕のように営の上を覆い、再び手のひらの外も見えなくなった。人々はその気を望むと虹のようで上は天に亘っており、不祥の兆であった。数日を経ずしてついに敗れた(『釣磯立談』には、当時宋の軍の上に鸞が翔び鳳が舞うような形の気があったとある)。