義気の逸話
- 許規は南陽の人である。祖父の儒は義として梁の粟を食まず、南奔して歙州の山谷中に隠れ、生涯出なかった。儒生の稠、稠は規を生んだ。規は道家の言を好み、人となりは慷慨として義を尚び、常に宣歙の間を旅していた。傍らの舎で呻き呼ぶ声を聞き、訊ねてみると「私はどこそこの郡の人です。あなたが長者であると察し、まさに死のうとしていますので、骸骨をお託ししたい」と言い、そのまま袋の中の黄金十斤を指して「これをもって長者に交わりたい」と言った。規は承諾し、喪事を取り仕切り、恭しくその骨を千里負って、黄金とともに死者の家に置いた。死者には父があり、内から出てきてこれに驚き恥じ入り、そのまま金を献上して亡くなった子の言葉通り贈り物としようとしたが、規は顧みずついに立ち去った。規の子は逖という。
許規(附)逖――兵を知る人物
- 逖は字を景山といい、人となりは慷慨として自ら喜び、清節があった。後主の時、たびたび上書して事を言い、校書郎を得て監察御史に遷った。宋軍が金陵を囲むと、統軍使の張雄(すなわち李雄)が兵数万を擁して上江に駐屯していた。後主は逖に雄の兵を召すよう命じ、逖は上江に走ってその事情を告げた。雄はもとより忠義であったのですぐに命に従った。
- まもなく後主は蝋書で雄を溧陽(一に溧水に作る)に留めた。逖は「ここは柵兵の地ではない。留まればきっと敗れる」と言い、雄を戒めて「兵が来ても慎んで動くな。私の帰りを一晩待て。私は都に入って報告し、公の兵とともに城に入れるようにする」と言った。逖が去ると、宋軍がこれを挑発し、雄はそのたびに出て戦い、果たして敗死した。逖が到着すると、その敗残兵千人を収めて帰った。人はこれをもって逖を兵を知る者だと言った。国が亡んで宋に入り、召されて試験を受け汲県尉となり、官は司封員外郎に至った。