十国春秋卷二十九 南唐十五 列傳 廖凝
出処進退
- 廖凝は字を熈績といい、衡山の人である。若くして南嶽に隠居し、時に祝融峰の頂に登っては思いを触発して韻語を成し、当時の詩人はみなその下に屈した。元宗はその名を聞いてしばしば招聘したが、初めは詔に応じなかった。のちに江南で賊が起こると、凝は「道を抱いて死ぬよりは、義に就いて我が宗を存するに越したことはない」と言い、出て彭沢令となった。陶処士(陶淵明)の人となりを慕っていたが、まもなく笑って「淵明は五斗のために腰を折らなかった。私はむしろ長く人に使役されたくない」と言い、そのまま印を解いて衡山に帰った(『広輿記』に「凝は任期満了時、ただ詩巻と酒瓢を携えて去った」とある)。
- しばらくして再び起用され連州刺史となり、張居詠らと詩友となったが、まもなく再び辞して衡山に帰り隠れた。詩集七巻がある。一説には凝は匡図の弟であり、楚が亡ぶと金陵に遷り、官は水部員外郎・建昌県令・江州団練副使を歴任したというが、どちらが正しいかはわからない。