十国春秋卷二十六 南唐十二 鍾謨

要約

鍾謨、字は仲益。会稽の出で閩を経て金陵に僑居し、博学で文章に優れ翰林学士から戸部侍郎に進んだ。周の南侵で淮右が危急となると李徳明と共に軍前に使いし、御服・金銀器などを献じて講和を請うたが周世宗は許さず、徳明が淮甸十四州の割地を持ち帰ったことが「国を売った」と非難され市で斬られると、謨も周に留められて帰れなくなった。

元宗がついに割地称臣を決めると謨・徳明の初めの議のとおりとなり、謨は世宗のもとを往来するうちに驕り高ぶって周を頼みとするようになった。それでも宋斉邱・陳覚・李徴古の乱政を極言して失脚させ、徳明の冤罪を雪ぐよう請い、金陵の城壁修築を進言するなど帰国後は権勢を振るった。しかし文献太子薨去の後、後主の器量を軽んじて従善を推したことが元宗の怒りを買い、張巒との交結の罪も暴かれて饒州に流され、さらに宣州副使に貶された。

建隆元年、宋が周の禅を受けると、元宗は使者を送って謨に死を賜り、孫晟が使者として死んだのに謨だけ生きて帰った理由を問い詰めさせた。謨は「臣は命を承りました」とだけ答えて縊死し、張巒も連座して誅せられた。古碑を愛好し、水中に半ば没した碑文を記憶だけで書き留め、水が涸れた後に照合して寸分違わなかった逸話が伝わる。娘は家の禍を感じて嫁がず、後に道士となり守一と名乗った。

現代語訳全文

出自と割地交渉

  • 鍾謨、字は仲益、その先祖は会稽の人であったが閩の崇安に徙った。まもなく金陵に僑居した。博学で文章を作ることができ、元宗の朝で翰林学士となり、戸部侍郎に進んだ。
  • 保大中、周の軍が南侵し淮右が危急となった。元宗は謨に李徳明とともに軍前に使いさせ、表を奉って御服・金銀器・茶薬および牛酒を献じて師を犒い、息兵修好を請わせた。周世宗は許さなかった。さらにまた濠・寿等の六州を献じて講和を求めたが、世宗はまた納れなかった。謨は徳明を帰らせて表を取り、淮甸十四州の地をことごとく献じて国は附庸となることを願う旨を請うたので、世宗は初めてこれを許した。
  • 徳明が還って朝議に白すと、国を売るものとされた。元宗は怒って徳明を斬った。これより再び割地を議することはなくなった。謨はこれによって周に留められ帰ることができなかった。孫晟の死の際、謨もまた召されるうちにあったが、まもなく耀州司馬に貶された。

再度の周への使いと専横

  • 元宗が割地して称臣するに及び、謨・徳明の初めの議のとおりとなった。そこで周世宗は謨を召して汴に至らせ、衛尉少卿を授け、黄金五百両を賜って元宗に諭旨を伝えさせた。往復すること四度に及び、謨はすでに矜肆(驕り高ぶる)となり、周世宗がその言を聴くならば江左(南唐)は頼みとして恐れることはないと考えた。元宗もまたまさにその力を頼みとしており、心中これを憾みとしながらも体貌はすべて厚く扱い、礼部侍郎とした。謨は宋斉邱・陳覚・李徴古の乱政の罪を極言し、三人はこれによって皆敗れた。また徳明の寃を雪ぎ官を贈り諡を賜ることを請うた。
  • 翌年、周に入貢し、世宗の前で詩を賦したが、「帰り去らん老陪臣」の句があり、元宗はこれを聞いて悪んだ。世宗は常に謨に「江南は近ごろまた守備を修めているか」と問うと、謨は答えて「すでに恭しく大国に附いているのに、どうしてあえてまたそのようなことをしましょうか」と言った。世宗は言った、「そうではない。私と爾の国とは大義がすでに定まり、他の憂いは無いことを保証する。しかし後世のことは分からないから、我が世のうちに城隍を修め要害を治めて子孫のための計とすべきだ」と。謨は還ってこれを詳しく言い、そこで金陵の城壁を繕治するよう命じられた。

勢威の高まりと後継問題での失脚

  • 謨に尚書省の事を知らせ、三省の事はすべて謨が関与しないところが無かった。当時、文献太子(弘冀)が庶政を参総していたが、謨はその客の閻式を推薦して司議郎とし、百司の関啟(上申)は必ずこれを経由させた。勢燄は赫然として、人々は多く切歯した。まもなく周世宗が崩じ、謨は自ら恃むところが無いことを推し量って忽忽として失うところがあるかのようであった。元宗の待遇はますます薄くなった。
  • 左軍都虞候の張巒は謨がもとより善しとする者であった。謨のところに至るたびに人を退けてともに語り、あるいは夜半に及ぶこともあった。また常に巒に帳下の兵を率いて都城を巡らせることを請うた。給事中唐鎬は謨と隙があった。廉(密偵)して謨と巒が交搆(謀議)している状況を得たので、密かに「謨は両国を往来し、周人を挾んで朝廷を脅している。今またと兵を典る者と密かに結び、たちまちあえて輦下(都下)を巡徼させることを請うている、その心はほとんど測ることができない」と言った。謨は微かにこれを聞き、竒貨(つけこむ材料)とするものが無いと思っていたが、折しも文献太子が薨じ、後主が嫡弟として当然立つべき立場にあったのに、謨は常に元宗の愛子従善と共に周に使いして相い親厚であったので、そこで「後主は器が軽く志が放縦で人君の度量が無い」と上言し、そこで従善の才が建儲の意に及ばないと盛んに称した。元宗はすでにもとより決していたので、さらにこれをもって旨に忤らい、ついにその張巒との交結の罪をすべて暴き、国子司業に貶し、再び著作佐郎に貶して饒州に安置し、中使を遣わして侍衛軍十人を率いさせ、その日のうちに督促して道を上らせた。謨は当時まさに風眩の病にあり、道中で詩十章を賦したが、語は極めて凄惨であった。宣州副使に改め貶された。

死と好古の逸話

  • 建隆元年正月(960年CE)、宋が周の禅を受けると、元宗はこれを聞いて使者を遣わし、その所在で死を賜った。謨は望拝して「臣は国に負くところはありません」と言った。使者は「詔で問う、卿は昔孫晟とともに周に使いしたが、晟は死んで卿だけが官を得て卒に生きて還ったのはどうしてか」と言った。謨は再び拝して「臣は命を承りました」と言い、そこで縊れて死んだ。巒もまた坐して誅せられた。
  • 謨は性格として古碑を好み、中原に使いする間、道端の碑碣に遇うと必ず馬を駐めてこれを歴覧した。常に碑砆(碑石)の大きな碣が半ば水中に没しているのを見た。謨は欣然として衣を脱ぎ、手で撫でて黙してその文を記した。後日、水が涸れると記録した本文をもってこれと照合し、差異が無かった。その爽邁(明晰さ)なることはこのようであった。謨には娘があり、家の禍を感じて嫁がず、孔子・老子の書に博通し、とりわけ講説に巧みであった。後に洞真宮の女道士となり、名を守一と言った。