十国春秋卷二十六 南唐十二 査文徽
要約
査文徽、字は光慎。歙州休寧の人で、若くして苦学し数百巻を手ずから書写し、困窮者を見過ごせない侠気ある人物として知られ、家財を傾けても悔いなかった。烈祖・元宗に重用されて樞密副使に至り、閩主の内乱に乗じて延政討伐をまず唱え、辺鎬・臧循らを率いて建州を攻めさせた。臧循が戦死し軍声が挫かれる苦戦を経ながらも降将孟堅の内応で建州を陥落させたが、諸軍の殺掠を禁じなかったため民心を失った。
呉越の偽情報に踊らされて福州へ出兵した際は、慎重論を退けて城に入り伏兵にかかって将士万人を失う大敗を喫し、自らも捕らえられ杭州に送られた。後に返還される途上で毒を盛られ、金陵に帰って発病し、瘖の病を得て工部尚書として致仕した。朱元の周降伏に連座し宣州に安置され、毒を受けてから十年目に七十歳で没し、宣と諡された。かつて陳覚を通じて宋斉邱に付き権勢を恣にした一面もあった。子の元方は宋の使者盧多遜に南唐への忠義を毅然と述べて恥じ入らせ、盧絳の乱では敵の使者を直ちに斬るなど気節を示した。
史論は陳覚・李徴古・魏岑・馮延已・馮延魯・査文徽ら宋斉邱の党派が中外に根を張り代わる代わる要職を占めて正人と讐となり、唐の牛李党争さながらに党争によって国を滅亡に導いたと厳しく総括している。
現代語訳全文
出自と烈祖・元宗期の抜擢
- 査文徽、字は光慎、歙州休寧の人である。幼い時から学問を好み、自ら刻苦して手ずから経史を数百巻書写することができた。やや成長すると気概と侠を好み、人が困窮していると聞けば見知らなくとも必ずこれを救った。家はもと富んでいたが、これに坐して窮乏したがそれを悔いなかった。あるいは金帛を贈られたが、ある夜盗人がその家に入ってすべて盗み去った。文徽は言わず、隣里も誰も知らないほどであった。しばらくして盗人が近隣の邑で捕えられ、文書を回して尋問して人々は初めてこれを知り、皆その度量に感心した。
- 烈祖が政を輔佐していた初め、入って謁見すると、烈祖は召してこれと語り、その議論を偉とした。宋斉邱もまたこれを推薦した。徐知諤が浙西節鎮を領した時、文徽を判官とした。ある者が玉杯を献じると、知諤は喜んで銭百万を酬い、すぐに宴を開いた。杯を出して酒を行うと文徽のところに至って偶然地に墜として砕けたが、一座は皆驚いたのに文徽は自若としていた。
- 烈祖が受禅すると監察御史として入り、元宗が立つと諫議大夫・中書舎人に改まり、樞密副使に遷った。
建州攻略の主唱と福州の失陥
- 閩主延羲とその兄延政は相攻めていた。延政は建州をもって建国し殷と称したが、延羲はその将朱文進に殺された。元宗は文進を討とうとし、文徽は延政が乱を首唱したのだから、まず討伐を加えるべきだと考えた。翰林待詔の臧循という者が文徽と同郷であり、若い頃常に商人として閩に入りその山川険易を熟知していたので、進兵の策を陳べた。文徽はもとより兵事を語ることを好んでいたので、そこで行くことを請うた。元宗はそこで江西安撫使とし、境上に至って可否を審らかに観察させることとした。
- 文徽は成功に鋭く、上饒に至って復命し、必ず克つことを盛んに言った。詔して洪州の屯兵を発し、辺鎬を将として文徽に従わせて建州を攻めさせた。建の人は王氏の乱に厭き、木を伐り道を開いて師を迎えた。行軍が葛竹に次った時、建州の兵が来ると聞き、また泉・漳・汀州がすべて延政に帰したと聞くと、恐懼して建陽に退保した。当時、臧循もまた別将として邵武に屯していたが、延政はこれを襲破し、循を捕えて建州で斬った。軍声は大いに挫かれた。元宗は何敬洙らを遣わして援護させた。敬洙と鎬は建州の兵と相持した。文徽は建の降将孟堅を得て、密かに軍を出してその後ろを攻撃させ、建州の兵は大敗して潰走した。そこでその城を陥落させた。
- 建州は下ったとはいえ、諸軍は紀律が無く、殺掠を禁じなかったので、民は初めて失望し叛意を持つに至った。元宗はこれを知っても問わず、功に策(記録)して撫州観察使に遷し、また永安軍留後に拝した。これにより文徽はますます自ら用いた(傲慢になった)。
- 保大八年、呉越が偽って諜者を遣わして福州の乱を告げたので、文徽は喜んで剣州刺史陳誨を遣わしてこれに赴かせた。誨は舟師を将いて福州城下に至り、その兵を撃破し、呉越将馬先進ら三人を捕えた。しばらくして文徽は歩騎をもって至った。呉越の知威武軍呉程は数百人を陽ってこれを出迎えさせながら、西門に伏兵を設けて待った。誨はまだ速やかに進むべきではないと考えたが、文徽は「疑えば変を生じる」と言い、伝令して直ちに城に入らせたところ、伏兵の中に陥って大敗し、馬から墜ちて捕えられ、杭州に送られた。将士の死者は万人であった。
呉越での毒殺と晩年
- 元宗は使者を遣わして先進を呉越に還し、文徽の返還を求めた。呉越忠懿王はこれを還らせた。まさに出発しようとする時、酒を挙げて毒を盛った。金陵に帰り着くと毒が発作した。元宗は医者に診させたところ、医者は珠を口中に置いた。しばらくして珠の色が黒く変わった。医者は「病は治せないが、なお十年は生きられる」と言った。文徽はそこで瘖の病を得て、工部尚書として致仕した。
- 朱元が北の周に降ると、親党に坐して宣州に安置され、卒した。享年七十。毒を受けた年からちょうど十年であったという。諡して宣と言った。文徽は初め陳覚と善く、覚によって宋斉邱に附き、転じて相い汲引しあい、ついに柔媚便辟(媚びへつらい)に習熟し、人主の委信を取り、斉邱らと死党を結んだ。元宗が嗣位した初め、斉王に庶政を総べさせる詔を下した時、ただ文徽と魏岑だけが事を言うことができ、朝廷を挙げて駭愕したが、文徽は晏然としてこれに当たり辞さなかった。その恣肆(わがまま勝手)なることはこのようであった。子は五人、元方・元規・元素・元範・元賞。
子元方
- 元方は後主に事えて水部員外郎となった。吉王従謙が招いて掌書記とした。従謙が宋に朝すると、宋太祖は知制誥盧多遜に命じて館で従謙をもてなさせた。多遜は碁を打つついでに元方を顧みて「江南は結局どうか」と言った。元方は襟を正して「江南は大朝に事えること十余年、君臣の礼を尽くしており、その他のことは存じません」と言った。多遜は碁盤を押しやって恥じて謝り、「江南に人が無いと言うな」と言った。
- 使いから還ると建州の通判となった。盧絳が歙州に拠って檄を建州に伝えると、元方は直ちにその使者を斬った。絳が平定されると、宋太祖は元方の為したことを聞いて大いに悦び、殿中侍御史に擢用し、泉州知事とした。官にあって卒した。
史論
論じて言う。陳覚ら六人(陳覚・李徴古・魏岑・馮延已・馮延魯・査文徽)は皆宋斉邱の党である。中外に蟠拠(根を張る)し、代わる代わる相い柄任(要職を占める)し、ついに正人と讐となり、兵は連なり禍は結ばれた。かつて唐代に牛李両党が国是を動揺させたように、区々たる江南は遠略を務めず、それでいて往轍(過去の轍)を踏襲し、国はそれに従って亡んだ。ああ、悲しいことではないか。