生涯
- 李徴古は袁州宜春の人である。昇元末に進士に挙げられた。宋斉邱と中外の姻戚関係があった。斉王景達の宮官であった時、斉邱が九華に帰ることを願い出て一年余り召されなかった。徴古はその僚である謝仲宣に景達を諷させ、元宗に「斉邱は先帝布衣の旧友であり、用いられなくとも棄てるべきではない」と言わせた。斉邱がすでに召されると、徴古はついに陳覚と結んで朋党を成した。まもなく樞密副使に改まり、覚とともに機密を掌り、ますます互いに斉邱を挟んで自ら固めた。元宗の前で議事するに甚だ横柄で人臣の礼が無かった。
- 淮甸で兵が敗れた時、元宗は感慨して涙を流した。徴古はにわかに進み出て言った、「陛下は涕泣して何をなさるのですか、酒を過量に飲まれたのではありませんか、乳母が来ないのではありませんか」と。元宗は色を変え、左右の者は股栗(恐怖で震える)としたが、徴古は驁然(傲然)として自若としていた。また陳覚とともに元宗をないがしろにし、国事はすべて斉邱に付された。元宗は心中不平であったが、戎事がまだ収まっていなかったので発することができなかった。
- 江を画して兵を罷めるに及び、鍾謨が周から帰って尚書三省を判し、殊に斉邱の党与に切歯し、常に「人臣が国を窺うことは理として容すべきではない」と言った。折しも覚が周世宗の命を矯って宰相厳続を殺そうとした事があり、覚・斉邱の党が敗れると、徴古は官爵を削奪され、洪州に安置され、死を賜った。