十国春秋卷二十五 南唐十一 張義方

生涯

  • 張義方は、どのようにして仕官したかは分からない。烈祖が呉の禅を受けると、侍御史に用いられた。義方は就職するとすぐに上疏して言った、「古の御史に任じられた者は、獄訟を平らかにし班列を粛正するに止まらなかった。威を恃んで法を侮り、忠を棄て義を賊い、朋党を樹て聡明を蔽う者があれば、これを紏弾することができた。人主が遊猟・声色を好み、奢侈・佞媚を悦び、功でないものを賞し罪でないものを罰することに至っては、これを論争することができた。これによって諸侯はあえて法を乱さず、百司は権を盗むことができなかった。すなわち御史は職を失わないものであった。今、文武の才行の士は固より乏しくないが、貪墨(汚職)して法を陵犯し風教を傷つけ仁義を棄てる者は、なお心を改めていない。臣は陛下の徳音を奉じ、まず忠孝潔廉の者を挙げ、爵賞を頒つことを請い、その後で乖戾(不正)の者を繩紏して典刑を正したいと存じます。小さければ上疏して刑を論じ、大きければ対仗(朝議の場)で弾奏いたします。臣は常々、国家の敗れることは、ひとり人君の不明によるだけでなく、官が卑しい者は罪を畏れて言わず、位が尊い者は禄を持して諫めず、上下が茍且(その場しのぎ)にして淪亡に至ることを痛感しております。今、臣は誠に君親の義を忘れることに忍びず、尽くさないところがあります。ただ陛下、どうかこれをお赦しください」と。
  • 疏が奏上されると、烈祖は大いに称賞を加え、制して言った、「私は初め義方を風憲(監察の職)に任じたが、よく力を尽くして朝綱を振るわせた。辞はすべて讜切(正直で切実)である、朝野に宣示すべきである」と。義方に衣一襲を賜ってその直言を旌した。義方は初め名を元達と言ったが、烈祖がまさにこれを倚りにして邪慝を粛正しようとし、前朝の王義方の名を取ってこれに易えたので、義方は忠を尽くすことができたのである。
  • 義方は常に道士の陳友に牛頭山で丹を合わせさせたが、未だ成らないうちに疾に遭った。子弟に丹竈を開かせ、一丸を取って服させたところ、そのため瘖(声を失う病)を病んで卒した。