十国春秋卷二十五 南唐十一 蕭儼

要約

蕭儼は廬陵の人で、わずか十歳で童子科に及第し、烈祖・元宗・後主に仕えて明察公正な官吏として知られた。隣人が盗みを誣いられ拷問に耐えかねて自白した冤罪の事件で、儼が精進潔斎して神に祈ると翌日雷雨が起こり、盗品を腹に収めた牛が雷に撃たれて真相が判明し、大いに名声を上げた。烈祖崩御に際し宣徽副使陳覚が病と称して出仕せず遺詔を聞くとすぐ入朝したことを「私室で崩御を待っていた」と弾劾し、馮延巳・延魯が民の子女売買を許す詔を偽って請おうとした企みを暴いてこれを阻んだ。

元宗が国を諸弟に譲ろうとした際には夏殷以来の父子相伝の道理を説いて極諫し、烈祖の廟号を「宗」とすべきと説く江文蔚の議に賛同してこれを用いさせた。景遂への譲位を図る詔にも宋斉邱・賈崇と共に反対して撤回させ、元宗が造った百尺楼を「景陽楼に及ばない」と暗に諫めて怒りを買い、舒州判官に貶されたが、節度使孫晟に監視されたことに抗議して撤回させた。後主の即位後は碁に興じる後主に「臣が魏徴でなければ、陛下もまた太宗ではない」と諫めて碁を止めさせ、彈奏に阿ることなく百官貴戚に恐れられた。宋に帰属後は郷里で老病のうちに七十五歳で没し、生涯一金も貯えぬ清貧を貫いた。

現代語訳全文

出自と獄事の裁定

  • 蕭儼は廬陵の人である。わずか十歳で広陵に赴き、童子科によって及第した。成長するにつれ、志と度量は方正で、交わりはいい加減に合わせなかった。秘書省正字を授けられた。烈祖が受禅すると大理司直に遷り、刑部郎中に除せられ、明允(明察公正)と称された。
  • 昇元の格(法令)では、盗んだ物の価値が三緡に及ぶ者は極刑に処すとされていた。この時、豪民の甲が庭の篋(箱)に衣を曝していたところ、たちまち衾服(夜具と衣服)を失った。価値は数十千に及んだ。隣人の乙がこれを盗んだと疑い、邑令に訴えた。乙は誣いられて盗んだと自白した。その贓(盗品)を詰問すると、市で売ったと言うが、それは楚掠(拷問)に耐えられなかったからであった。まさに刑を行おうとする時、寃を呼んで人々を動かした。長吏はこれをすべて上聞した。烈祖は儼にこれを覆案(再審)させたが、儼は命を受けてもついにその要領を得なかった。そこで精進潔斎し沐浴して神に祈ったところ、翌日突然雷雨が西北から起こり、甲の家に至って一頭の牛を雷で撃ち殺した。腹を割くと失われた衾服が出てきた。牛が食べたものはまだ完全に消化されていなかったのである。そこで乙を赦し、儼の名声は大いに著れた。

陳覚の弾劾と延魯への駁論

  • 烈祖は晩年、金石薬を服し、しばしば暴怒して近臣がたびたび譴罰を被った。宣徽副使の陳覚は自ら安んじられず、病と称して数ヶ月出仕しなかったが、遺詔を聞くとその日のうちに朝廷に来た。儼は劾奏して「覚は私室で耳をそばだてて崩御を待っていた」と述べ、その罪を按ずることを請うたが、返事は無かった。
  • 烈祖が呉を輔佐していた時、法を設けて良人を奴とすることを禁じていた。この時に至って、馮延巳・延魯が伎妾を広く置こうとし、たびたび制を偽って民が貧しいので子女を売ることを許すと称した。儼はこれを駁して言った、「昔、延魯は東都判官であった時すでにこの請いをしたことがあり、大行(先帝)は臣に諮問された。臣は答えて『陛下が政を執られた初めに庫の金を出して民の奴婢を贖われたのに、誰が心を寄せないでいましょうか。今、宝運(国運)が中興し、人々は徳沢を仰いでいるのに、どうして子女を売って豪家に資し、使役させることを望まれましょうか』と申し上げました。大行は臣の言葉を然りとされ、延魯を罪しようとされましたが、臣は『これはただ智識が浅陋であるだけで、他意はありません。これを罪すれば言路を塞いでしまいます』と申し上げました」と。大行はそこでその奏を斜めに封じ、三筆で抹消して宮中に持ち込み、密かにこれを求められた。その後果たして延魯の奏が見つかったのである。折しも大臣たちは正に豪侈を相尊んで声色を広げることを利としていたので、共に「遺制はすでに宣行されており、追って改めるべきではない」と言い、そのまま終わった。

皇位継承の議と烈祖廟号の議

  • 元宗は初め、国を諸弟に譲ろうとし、群下がこれを不可とし、そこで斉王景遂を諸道兵馬元帥とし、燕王景達をその副とし、国人に兄弟相伝の意を宣告した。儼は極諫して、「夏・殷以来、天下は家となし、父子相伝することは易えることのできない典則である」と言った。景遂・景達もまた固辞して敢えて当たらなかったが、元宗の意はますます固く、聴き入れなかった。
  • 江文蔚・韓熙載が太常の礼儀を典り、烈祖を宗と称することを議した際、儼だけが「帝王が已に失ったものを已に得た場合、これを反正という。已に失っていないのに自ら復すことを中興という。中興の君は廟において祖と称すべきである。先帝は已に堕ちた業を興したのだから、屈して宗と称するべきではない」と建言した。文蔚もまた儼の議を当を得たものとし、ついにこれを用いた。

百尺楼の諫言と貶官

  • 保大二年(944年CE)、元宗はついに位を景遂に伝えようとし、詔を下して庶政を総べさせ、ただ魏岑・査文徽だけが事を奏することができ、それ以外は特召でなければ対することができないとした。儼は上疏して力を尽くして争った。折しも宋斉邱・賈崇もともに不可としたので、詔は収められ実行されなかった。
  • その後、元宗が宮中に百尺の楼を作り、近臣を召して見せたところ、皆その宏麗を歎じたが、儼だけは「楼の下に井が無いのが残念だ」と言った。元宗がその故を問うと、答えて「これでは景陽楼に及ばないからです」と言った。元宗は怒って舒州判官に貶した。節度使の孫晟は州兵を遣わして儼に給し、実際にはこれを防衛(監視)させた。儼は晟に言った、「私は諫諍によって罪を得た、他意があるのではない。顧命の日、君は異議を持って社稷を危うくしかけた。君の罪は私より重くはないのか。今かえって防がれるとはどういうことか」と。晟は恥じてすぐにこれを撤去させた。まもなく召還されて大理卿となった。

後主への諫言と晩年

  • 後主が初めて即位した時、しばしば嬖幸(寵臣)と碁を打っていた。儼が入見して色を作し、碁盤を地に投げつけた。後主は大いに驚いてこれを詰問して言った、「お前は魏徴を真似ようとするのか」と。儼は言った、「臣が魏徴でないならば、陛下もまた太宗ではありません」と。後主は碁をやめた。儼は身を秉ること方直で、彈奏(弾劾)して阿ることなく、百官貴戚は襟を正してこれを避けた。
  • 後に宋に帰し、老病により郷里に居した。訴訟のため郡に至った時、言辞が錯乱していた。郡の丞はその病を知らず、愚かで誤っていると思い、言った、「江南はお前たちのような者を正卿に用いたのだから、亡びないで何を待とうか」と。享年七十五で卒した。至るまで一金も無かった。