十国春秋卷二十三 列傳 公乘鎔

経歴

  • 公乘鎔、相州の人である。その先祖に爵位「公乗」を賜った者があり、そこでこれを氏とした。元宗が即位すると、鎔に伴送使の陳植とともに海を渡って契丹と修好させることを命じた。
  • 翌年、鎔は蝋書を元宗に進めて言った。「臣鎔は去年の六月に罌油を離れ、七月に鎮東関に至り、王朗を遣わして契丹に表を奉りました。九月に至って蕃官の彛離畢部の牛車百余台と鞍馬とが道すがら宿駅に用意されており、十月に東京に至り三日間留まりましたところ、契丹主は閑厩使の王廷秀を遣わして詔をもって労い問われ、あわせて泰寧王・燕王が九月に大事をともに行い、兀欲がすでに世を去り、その母と妻もあわせて命を落とされたことを述べられました。また遼東より西は水潦により道が壊れ、数百里にわたり車馬が通れませんでしたので、今年になってようやく幽州に至り、愍忠寺に宿泊いたしました。まず御容(先帝の肖像)を宮中に迎え入れましたところ、まず唐の皇帝の顔を見たいとおっしゃったので、旧来の儀のようにお引き合わせいたしました。国書の中の機密事について尋ねられましたので、臣はすぐに代々の友好の誼を述べ、まさに分裂を謀る事について申し上げました。契丹主は喜び、さらに何か事はないかと尋ねられましたので、臣は軍機については別に密書があると申しました。契丹主はこれを袖の中に受け取り、『私と唐の皇帝との関係は先朝と変わらず往来しよう』とおっしゃり、そこで酒宴を開いて音楽を合わせました。さらに臣にお告げになるには、『使者が大海を渡って来たとは、思いもよらず骨肉の間に変事が起こった。その噂は道々に聞こえていて、私も憂い恐れている』とのことで、自ら玉の盃に酒を注ぎ、まず自ら啜られ、それから臣にこれを勧め、飲み干させました。朝から夕方までようやくお開きとなりました。これより数度使者を遣わして労いのお言葉を述べられ、三日に一度食物を賜りました。謹んで王朗に骰号子を持たせて帰らせ、上聞に達しますようここに奏上いたします。」骰号子とは何であるかは分からない。当時の人は鎔に古の使臣の風があると評した。