十国春秋卷二十二 列傳 王建封

要約

王建封、上元の人である。若くして従軍し、任侠と驍勇で名を知られた。保大の頃の建州攻めでは先鋒橋道使として外郭を焼き払って城を克服する功を立てたが、何敬洙の功が最大とされたことに憤って「私の功が第一であるべきだ」と主張し、敬洙が譲って伝えたため、次善の賞として信州刺史を得たものの人々には敬洙が称賛され建封は軽んじられた。

続く福州攻めでは、陳覚・馮延魯・魏岑が功を争って連携せず陥落できずにいたところに増援として合流し、版寨を破って東武門に入る戦功を挙げたが、自らも諸将と功を争って急に兵を収めて先に退いたため、李弘義に乗じられて軍は再び敗れ潰えて帰った。元宗はこれを深く恨みに思ったが、陳覚らの擅権の処罰を優先したため建封は処罰を免れ、逆に天威軍都虞侯として親衛軍を任された。

これより恩寵を頼んで奢侈をきわめ遠慮がなくなった。魏岑らの専権を憎む戸部員外范冲敏に唆され、彼らを批判し正しい人物の登用を求める上書を行ったが、これが元宗の逆鱗に触れ「兵権を握りながら国政に干渉している」と池州流罪に処され、着任前に殺害された。冲敏も市に晒された。建封は文義に通じない武人で、一族の著書の「鴿」の誤字「人日鳥」を故事と思い込み、毎年「人日」に宴を開いては真っ先に持ち出すという滑稽な逸話が伝わる。

現代語訳全文

経歴

  • 王建封、上元の人である。若くして従軍し、任侠と驍勇をもって名を知られた。保大の頃、建州を取った際、建封は先鋒橋道使となり、建州の外郭を焼き払ってこれを克服した。閩王延政が降伏すると、何敬洙の功が諸将の中で最も大であったが、建封は憤って「私が火を放ち先登したからこそ、諸軍は入ることができたのだ。私の功が第一であるべきだ」と言った。敬洙はそのためにこれを推し譲り、詳しく朝廷に伝えたので、これに次ぐ賞として信州刺史を拝したが、人々はみな敬洙を称賛し建封を軽んじた。
  • まもなく陳覚・馮延魯・魏岑が福州を攻め、李弘義がこれを包囲したが、呉越の援軍を破ったものの、福州の援軍は絶えて危急に瀕し、まさに陥落しようとしていた。しかし覚・延魯・岑はそれぞれ自分に功を帰そうとし、互いに連携せず、副将たちも命令に従おうとしなかったので、なかなか陥落させることができなかった。覚は上奏して建封に増援を求め、建封は五千の兵を率いてこれに合流し、福州の版寨を破り、東武門に入った。しかし建封もまた諸将と功を争い、急に兵を収めて先に退いたため、弘義がこれに乗じて軍は再び敗れ、ついに潰えて帰った。
  • 元宗は建封を深く恨みに思ったが、覚らが擅に兵を興したことをまさに処罰しようとしていたため、建封の処罰までには及ばなかった。建封は内心不安を覚え、元宗はそこで天威軍都虞侯に召して親衛軍を任せた。建封はこれより泰然として、恩寵を頼んで奢侈をきわめ、遠慮するところがなくなった。戸部員外の范冲敏という者が、魏岑・鍾謨・李徳明が専権を握っていることを憎み、建封を唆して上書させ、岑らをつぶさに批判させ、正しい人物を改めて用いることを請わせた。元宗はこれによって激怒し、「建封は兵権を握りながら、あえて国政に干渉し、朝臣の進退を謀ろうとしている。これを助長させてはならない」と言い、池州に流罪としたが、着く前にこれを殺し、冲敏を市に晒した。岑は長らく冲敏の亡霊が現れるのを見、道士に上章して天に訴えることを請うたが、数か月後、岑もまた死んだ。
  • 建封はもとより武人で文義に通じておらず、一族の子に『動植疏』を著した者がおり、その中で鳩(鴿)に関する記述を「鴿」を誤って「人日鳥」と書いてしまったが、建封はこれを故事と思い込み、毎年「人日」(正月七日)に宴を開くたびに必ず真っ先にこれを持ち出したので、これを聞いた者はみな内心で失笑した。