十国春秋卷二十一 列傳 游簡言
要約
游簡言、字は敏中、呉の知制誥であった游恭の子である。父が任地で卒すると広陵に間借りして暮らし、力めて学問に励み、秘書省正字として身を起こして烈祖の幕府に推挙された。烈祖の金陵鎮守時には戸曹参軍として元帥府の文書を掌り、斉国建国後は内史舎人として典冊の起草を一手に担った。烈祖が呉に代わると翰林学士に抜擢され、元宗の代には礼部侍郎に進んだが、独り権勢に付かず、職掌でない国家の事には決して口を出さなかった。
元宗はその人柄を重んじて中書省を判じさせ、吏部・兵部の選事を兼ねさせて僥倖の出世を裁抑させたため、これを憎む者が増えた。選人の邵唐が試判に落第した恨みから、父恭の旧悪を口実に「逆臣の子」と讒言したが、元宗は怒り、唐を杖罰の上で流罪とした。呉越との交戦の際、辱められた使者の後任として白羽の矢が立つと辞退せず出発しようとしたが、国境を出ないうちに召し戻された。呉王の監国の輔佐を任じられそうになると力めて辞退し、私心なく主に仕える姿勢を評価された。
吏部尚書として自ら帳簿を扱い、督責は厳しく、道理にかなう頼み事も頑として取り上げず、その行き過ぎを批判する声もあった。まもなく左僕射兼門下侍郎同平章事を拝したが、すでに病が重く、事を執れぬまま卒した。年五十六、諡は宣靖。
現代語訳全文
経歴
- 游簡言、字は敏中、呉の知制誥である恭の子である。恭が任地で卒すると、簡言はそのまま広陵に間借りして住んだ。幼くして父を失い、力めて学問に励み、秘書省正字として身を起こし、推薦により烈祖の幕府に入った。
- 烈祖が金陵に鎮すると戸曹参軍に署され、元帥府の文書を掌り、やがて観察推官に遷った。斉国が建てられると内史舎人の職に就き、当時の典冊はいずれもその手筆から出て、任務は殷崇義らと同等であった。
- 烈祖が呉に代わると、旧恩によって翰林学士に抜擢された。元宗が立つと礼部侍郎に進み、独り権勢に付かず、自らの任務でない国家の事は決して口を出そうとしなかった。それは職掌を侵すことを望まなかったからである。
- 元宗は日頃からその人柄を重んじ、中書省を判じさせ、吏部・兵部の二部の選事を兼ねさせ、僥倖(不正な出世)を裁抑したため、これを憎む者がますます増えた。
- 選人の邵唐が試判に落第すると、上書して「簡言の父恭はかつて杜洪の掌書記であったが、洪が朱温の簒弑を助長したのは恭の謀によるものである。簡言は逆臣の子であり、斬るべきである」と述べた。元宗は唐が私憤を挟んで讒言中傷したことに怒り、杖罰の上、饒州に流罪とした。
- 淮南で交戦するに及び、呉越もまた隙をうかがって常州を攻め、団練使の趙仁澤を捕らえて銭塘に連れ帰った。仁澤は屈せず、呉越王はその口を耳まで裂かせた。まさに使者を遣わして詰責しようとしたが、群臣は畏れおののき、あえて赴こうとする者がなかった。元宗はそこで簡言に命じた。簡言は辞退せず、その子の愻を千牛備身として出発しようとしたところ、中書侍郎を拝命し、国境を出ないうちに召し戻された。
- 南都に遷って呉王を太子に立て、留都・監国とするに及んで、簡言を輔佐に任じようとしたが、簡言は力めて辞退し、「久しく近臣として仕えてきたので、忍びなく帷幄(帝の側近く)を去ることができません」と言った。元宗はその一心に主に仕えて後の福を求めない心をよしとして、その願いを聞き入れ、代わりに厳続を用いた。後主もこれによって簡言を賢とした。
- 吏部尚書・知省事を拝した。簡言は自ら帳簿を扱い、督責は厳しく、人がある事で頼み込んでも必ず頑として拒み、たとえ道理にかなうことであっても取り上げなかったため、議者はその行き過ぎを批判した。
- まもなく左僕射兼門下侍郎同平章事を拝したが、病がすでに重く、事を執ることができないまま卒した。年五十六、諡は宣靖。