十国春秋卷二十一 列傳 馬仁裕
要約
馬仁裕、字は徳寛、徐州の人である。唐の名将馬燧の子孫で、代々武寧軍の校尉を務めた家系であった。乱に遭って南に逃れ、周宗・曹悰とともに烈祖に仕えて牙吏となり、烈祖の潤州領有時には蒜山の渡しを監督して朱瑾の乱をいち早く報告し、烈祖はその日のうちに江を渡って乱を平定した。この功で左領軍将軍に遷り、楚州刺史・右金吾衛大将軍を歴任し、烈祖の娘を娶り興国公主の夫となった。
禅代の後は鎮海軍・昭順軍の節度使を歴任し、寛簡廉平な政で民心を得た。昇元六年、任地で卒し、年六十、匡初と諡された。烈祖の側近で親信の者は周宗と仁裕の二人のみで、天泉閣や崇英院の宴にも特に招かれ、宗とともに革命を助けたので恩恵は特に厚かった。しかし仁裕は自ら形跡を遠ざけ権勢を排除することに長け、烈祖の世を通じて外鎮に安んじ過ちが聞こえることはなく、晩年は貧しくなっても悔いなかった。
子の文義は父の蔭で仕え、建州の役では将吏がこぞって府庫の金帛を奪う中、独り民の戸籍を収め持ち帰った清廉さで知られた。文義が卒した日、子の禹昌はわずか二歳であったが、同僚の弔慰品を妻の朱氏は一切受け取らなかった。著者は史論で、禅代の功臣の中でも建勲・仁裕の淡泊な生き方を「足るを知れば辱められず、止まることを知れば危うくならない」体現者として称えている。
現代語訳全文
経歴
- 馬仁裕、字は徳寛、徐州の人である。もとの唐の北平王馬燧の子孫であり、代々武寧軍の校尉であった。仁裕の母がまさに身ごもった時、「北平王が帰って来た」と伝え呼ぶ声を夢に見、生まれるや紫の気が庭に満ちた。数歳にして兵法を学び、あたかも前から習っていたかのように通暁した。
- 乱に遭って南に逃げ、周宗・曹悰とともに烈祖に仕えて牙吏となった。烈祖が潤州を領すると、仁裕は蒜山の渡しを監督しており、真っ先に朱瑾の乱を聞きつけて馳せ参じて報告し、烈祖はその日のうちに江を渡って乱を平定した。功により左領軍将軍に遷り、楚州刺史・右金吾衛大将軍を歴任し、烈祖は娘をこれに嫁がせ、これが興国公主である。
- 禅代の後、鎮海軍節度使を拝し、昭順軍に遷り、政は寛簡廉平で大いに民心を得た。昇元六年、任地で卒し、年六十、匡初と諡された。
- 烈祖の側近の小臣で親信の者は、ただ周宗と仁裕の二人のみで、任用の待遇はほぼ等しかった。仁裕は宗とともに革命の事を力を尽くして助けたので、烈祖は心中これに徳とし、恩恵はますます手厚くなった。常に天泉閣で勲旧を宴した際、仁裕は旧恩によって特に礼数に与り、恩命は李建勲らと肩を並べた。まもなく再び宋齊邱・周宗を崇英院に宴した時にも、仁裕だけがこれに加わり、旧交を語ることを楽しみとし、他の将相はいずれもこれに及ばなかった。
- しかし仁裕は自らの形跡を遠ざけ、権勢を排除することに長けており、烈祖の世を通じて退いて外鎮に安んじ、過ちが聞こえることはなかった。晩年はますます貧しくなったが、悔いることはなかった。子は文義。
馬文義――経歴
- 文義は父の蔭により千牛備身を授けられた。建州の役で、将吏がこぞって府庫に入って金帛を奪い取ったが、文義だけは民の戸籍を収めて幕府に持ち帰った。讃善大夫に遷った。
- 卒した日、子の禹昌はわずか二歳であった。同僚たちが弔慰の品を贈ったが、妻の朱氏は一切これを受け取らなかった。人々は文義がその妻をこのように感化していたと言った。
史論
- 周・李・徐・馬は左右の親臣と称され、腹心として頼りにされ、みな禅代の謀に与ったことにより一躍顕栄の地位に躋(のぼ)った。まことに世に稀な待遇と言えよう。李建勲・馬仁裕に至っては、淡泊で欲少なく、退いて自らを抑えた。古人の言う「足るを知れば辱められず、止まることを知れば危うくならない」とは、まさにこのことではないだろうか。