十国春秋卷二十 列傳 徐遊
要約
徐遊は義祖ゆかりの重臣、徐知誨の子である。初め景遊と名乗ったが元宗の諱を避けて遊とだけ名乗った。父の恩により、元宗は遊と兄の遼をとりわけ親厚に待遇した。遊は宮室の営繕を掌り、貴顕でありながら文学を尊び文士と往来した。
元宗が清暉殿を創建すると学士として召され、太子太保に進んだ。後主の代は文才によって親しく仕え、昭惠后の作曲を傍らから称美して幇間めいた振る舞いがあった。小周后立后の際は徐鉉・潘佑の議論を評させられ、寵用の潘佑に阿った。
後主が澄心堂を建てると、遊は兄とともにその中枢で機密を取り仕切り、宋軍包囲時には軍令もここから発せられた。後主の過度な仏教信仰にも迎合し寺塔の造営を取り仕切ったため国庫は空虚となり、破綻を招いた。遊にもその責がないとは言えない。
一方で工夫に巧みで、途絶えていた戒めの器「欹器」を独力で復元し、宋の学士蘇易簡がこれを得て試すと太宗も称賛した。金陵陥落を前に、徐鍇は兄弟と遊を鉄の篩で篩う夢を見、鍇と遊は篩の中で墜ちたが鉉だけは墜ちなかった。まもなく鍇と遊は相次いで病没し、予兆は的中した。
現代語訳全文
経歴
- 徐遊は知誨の子である。義祖ゆかりの縁により朝廷では宗室として扱われ、文安郡公に封じられた。初めの名は景遊といった。
- のちに元宗の名(景)を避けて「景」の字を去った。知誨は元宗に恩があったため、元宗は遊、および遊の兄で汝南郡公の遼を特に親厚に待遇した。
- 遊は宮省に出入りし、専ら宮室の営繕の事を掌った。遊は家柄こそ貴顕であったが、かなり文学を尊び、常日頃から文士の輩と時々往来していた。
- 元宗が北苑に清暉殿を創建すると、遊と張洎に命じて学士とし、その中に入直させ、まもなく太子太保に進めた。
- 後主が跡を嗣ぐと文章を作ることを喜び、遊もまた文を作ることをもって親昵され、宴飲のたびに流連して酣咏し、互いに唱和した。昭惠后(大周后)は音律を好み、常に新しい曲や旧唐の遺曲を作曲していたが、遊は傍らからこれを称美し、幇間めいた振る舞いがあった。
- 乾徳の初め、後継の国后として周氏(小周后)を立てることになり、徐鉉と潘佑が婚礼の議で決着がつかなかったため、後主は遊に両家の是非を評させた。時に佑がまさに寵用されていたため、遊はその意を迎え、佑の議論が正しいと奏し、その婚礼の迎えの儀もこの類が多かった。
- 後主は常に清暉殿の後ろに澄心堂を建て、朝廷の内向きの拠点とした。遊は遼とともにその中枢に居て事を取り仕切り、従子の元楀を員外郎に任じた。機密の事の計画は多くその間から出た。宋の軍が城を囲むと、分兵の署字はみな澄心堂から出され、宣命を直接に承って「澄心堂承旨」と称し、遊らがこれを主管した。
- これより先、元宗は仏教を好んだが、仏を供養し僧を得度させたといっても、はなはだ溺れるには至らなかった。後主に至って酷いまでに仏に佞(へつら)い、都下の僧を養う数は万人を超え、塔を造り寺を建てて日々手が回らないほどであった。遊は主の好みに投じ、専らその事を取り仕切ったため、これによって国庫は空虚となり、事は破綻に至った。遊にはその責がないとは言えない。
- 性は巧思に富み、欹器(傾いた器、古の戒めの器)は久しく伝わっていなかったが、遊は独りその意をもって創り出し、古法に合致させた。太平興国年間、宋の学士蘇易簡がこれを手に入れ、玉堂で試したところ、太宗はこれを取り寄せて見て、称賛してやまなかった。
- 金陵が滅びようとしていた頃、徐鍇が病にかかり、夜に巨人が大きな鉄の篩を持って、自分と兄の鉉、および遊を捕らえて篩の中に納れ、これを篩う夢を見た。鍇と遊はともに地に墜ちたが、鉉だけは墜ちなかった。まもなく鍇と遊は病により卒し、ついにその予兆に符合した。