十国春秋卷十九 列傳 芳儀

要約

芳儀は南唐元宗の娘であるが、その行次(生まれ順)や封号は伝わっていない。後主の代に南唐が宋に降ると、一族とともに北へ移されて汴京に寓居することとなり、そこで宋の供奉官である孫某に嫁いだ。孫はまもなく武疆都監に任じられ、芳儀を伴って任地に赴いた。金陵の宮殿で育った国主の娘が、亡国とともに北の異郷へと流転していく数奇な運命の始まりであった。

やがて宋の太宗が北漢の太原を平定し、その勢いに乗じて幽州(燕京)を奪おうとしたが、まもなく契丹の大軍が押し寄せて宋軍は敗れ、河北へ退いた。防備を失った武疆の郡県はことごとく兵禍を被り、芳儀もこの混乱のさなかに夫と離れ離れになり、契丹軍に捕らえられてしまった。かつて金陵の千口を数えた国主一族の一員でありながら、今や異民族の軍に身柄を押さえられる境遇に落ちたのである。

契丹の聖宗は、捕虜となった芳儀の美貌をことのほか悦び、さらにその出自を尋ねて南唐元宗の娘という高貴な家柄であることを知ると、これを宮中に召し入れて楽部に配属し、「芳儀」という号を与えた。これはおそらく契丹の後宮に仕える女官の称号であったのだろうと著者は推測している。教えられるまま歌い舞う身となったが、これは自らの意志によるものではなかった。芳儀は遼にあって公主を一人生んだとも伝えられ、これは趙至忠の『北庭雑記』に見えるという。

著者はさらに考証を加え、元宗が生前しばしば廬山九天使者観の修築を行ったと聞くところ、その際に施財した人々の氏名を刻んだ石碑に太寧公主・永寧公主(あるいは永禧公主)の名が列ねられていたことから、芳儀とはおそらくこの中に見える永嘉公主のことではないかと推測を述べている。史書には行次すら残されなかった一人の皇女の実名を、こうした断片から探ろうとする姿勢がうかがえる。

のちに宋の晁補之は北都の教官となった折、たまたま『北庭雑記』を読んで芳儀の身の上を深く悲しみ、顔復・長道とともに「芳儀曲」という長詩を作った。金陵の栄華のうちに育ちながら、国の滅亡によって異国の塞北に身を沈めることとなった芳儀の悲運を、望郷の情や、かつて胡地に囚われた李陵の故事になぞらえて詠んだこの詩は、南唐滅亡がもたらした亡国の女性たちの哀しみを象徴する作として後世に伝えられている。国は亡び家は破れて一身のみ存し、故国の秦淮の水も鍾山の樹も夢に見るほかなくなった、というのがその詩の眼目であった。

現代語訳全文

芳儀

  • 芳儀もまた元宗の女である。その行次・封号を失っている。後主が国を失うに及んで一族に従い北遷して汴京に寓した。宋の供奉官孫某の妻となった。孫は武疆都監に任じられ、これを携えて赴任した。宋の太宗が太原を下し、そこで勝ちに乗じて幽州を取ろうとしたが、まもなく契丹の兵が大挙して至り、宋師は敗れて河北に帰り、郡県は兵を被り武疆は守りを失った。芳儀は捕らえられ、遼の聖宗はこれを得てその都美(美しさ)を悦び、かつその家世を詢(たず)ね知って、そこで宮中に納れ楽部に隷させ、芳儀に封じた。おそらく遼人の内職の名であろう。元宗が国を享けていた日、常に廬山九天使者観を修めたと聞いていたが、施財した者の氏名を石に刻んだものの中に太寧公主・永寧公主が列ねられており、芳儀はおそらく永嘉公主のことであろう。