十国春秋卷十九 列傳 南楚國公從善

要約

従善は字を子師といい、元宗の第七子で後主の同母弟、重厚で武略を好む人柄であった。紀国公から鄧王、韓王と進封され太尉中書令に累遷したが、南唐が制度を降すに及んで南楚国公とされた。開宝四年、方物を奉じて宋に朝貢したところ、宋の太祖は彼を泰寧軍節度使兖海沂等州観察使として汴京に留め、甲第を賜って後主の入朝を促す使者とした。従善は「臣の兄は宗廟を嗣守しているが、陛下の入覲を許す恩は千載一遇です」と後主に帰朝を勧める書を送ったが、後主は応じず、逆に従善の帰国を求める上疏を重ねた。

以後、従善は宋にとどまり続け、後主は高楼から北を望んでは涙するようになり、歳時の遊燕もほとんど催されなくなった。かつて自ら綴った「却登高文」には、若き日の栄華と離別の悲嘆、原にせきれいが飛び交うのに帰らぬ弟への思いが切々と綴られている。従善の妃はしばしば後主のもとを訪ねて号泣したが、後主はその声を聞くたびに起って避け去ったといい、妃は憂憤のうちに卒し、国人はこれを哀しんだ。

南唐滅亡後、従善は宋から右神武大将軍に任じられ、雍熙の初めに右千牛衛上将軍、のち通許監軍となって享年四十八で薨じた。子の仲翊は同進士出身を賜り楚州推官・殿中丞を歴任し、次子の仲猷も三班借職に録された。

現代語訳全文

南楚國公從善

  • 從善は字を子師といい、元宗の第七子、後主の同母弟である。器度凝逺(重厚遠大)で特に武略を好んだ。初め紀國公に封ぜられ、鄧王に進封された。周に使いして宋の太祖が受禅すると、厚くその礼を受け、翰林學士の王著を遣わして送り帰した。初め從善は鍾謨と相結んでおり、謨はすなわち從善を嗣(後継)とすることを請うたが、元宗はこれに従わなかったものの、意はまた頗る從善を愛していた。南都に遷るに及んで扈従の諸軍を主どらせた。元宗が崩じてまだ梓宮に御していないとき、從善はすぐに徐遊に遺詔を求めたが、遊は厲色(厳しい顔色)でこれを拒み、金陵に至って事をつぶさに聞いた。後主はもとより友愛が深く、少しも意に介さずいよいよ輯睦(むつまじさ)を加えた。韓王に徙封され、太尉中書令に累遷し、貶して制度を降すに及んで南楚國公とされた。開寳四年、方物を奉じて宋に朝した。宋の太祖は從善を泰寧軍節度使兖海沂等州觀察使に拝し、京師に留めて甲第を汴陽坊に賜り、これによって從善に命じて後主に書を貽(おく)らせその入覲を督させた。從善は「臣の兄は菲才(つまらない才)をもって宗廟を嗣守しておりますが、陛下は覆載(天地)の恩を垂れ、その帰闕を許してくださるのは実に千載一遇であります、あえて詔を奉じないことがありましょうか」と言い、そこで書をなして宋帝の意を諭したが、後主は従わず、また手ずから疏を上げて從善が国に帰ることを求めた。宋の太祖はその疏を從善に示し、恩を加えて慰撫し、莫府(幕府)の将吏にはみな常参官を授けてこれを寵した。しかし後主はいよいよ悲しみ、高きに憑(よ)って北を望むたびに泣いて襟を霑(うるお)した。これにより歳時の遊燕は多く罷めて講じられなくなり、常に「却登高文」を製して意を見せ、その略に「玉斚(さかずき)の澄んだ醪(さけ)、金盤に繡いた餻(もち)、茱房の気は烈しく菊蕋の香りは豪(さかん)である。左右進みて言う、『これ芳しき時の令月、野に藉(し)いて高きに登るべく、況んや上林の伺(うかが)い幸(さち)ある機会、秋光の褒(ほ)められるのを待つべし』と。私はこれに告げて言う、『昔の壮なりし時は、情は盤楽(宴楽)にほしいままに歓賞し、労を忘れ心志を金石に泥(なず)み、花月を詩騒に泥(なず)み、五陵の得侶(友を得ること)を軽んじ、三秦の選曹(選ばれた官吏)を陋(いや)しみ、珠を量り伎を聘(もと)め、綵を紉(つむ)ぎ艘を維(つな)ぎ墻宇(垣根)に被(かぶ)せ、帛を耗(つい)やすことを丘山に論じ糟を委(す)つ。豈知らんや、長夜の靡靡(だらだらと続くこと)を忘れ大徳を滔滔(とうとう)に累ねたことを。家艱(家の困難)の如燬(火のごとく燃える)を愴(いた)み、離緒(別れの思い)の鬱陶(うっとうしい)を縈(まと)う。彼の岡に陟(のぼ)りて予(われ)足を企(つまだ)て、復闗(帰る関所)を望みて予が目を睇(み)る。原に鴒(せきれい)あり相従いて飛ぶも、嗟(ああ)我が季(弟)は来帰せず。空しく蒼蒼として風は凄凄たり、心は躑躅(たちもとおる)として涙は漣洏(さめざめ)たり。一歓(ひとつの喜び)の作すべきも無く、萬緒(もろもろの思い)ありて纒(まと)わりて悲し。ああ噫嘻(ああ)、爾(なんじ)の我に告げしこと、曾(すなわ)ち宜しきに非ず』」と。從善の妃はしばしば後主のもとに詣って号泣したが、後主はその至るを聞くたびに起って避け去った。妃は憂憤して卒し、国人はこれを哀しんだ。国が亡ぶと宋は改めて右神武大將軍を授けた。雍熙の初め、再遷して右千牛衛上將軍となり、四年、出でて通許監軍となり、薨じた、享年四十八。子の仲翊は大中祥符に同進士出身を賜り、二年また召されて試され楚州推官に除せられ、累遷して殿中丞となったが事に坐して免ぜられた。次子の仲猷は景徳中に特に三班借職に録された。